第三章 すべての始まり/前編
イルサットでジョリスが意識を回復している頃、ネクタスは未だ精神の牢獄から解き放たれていなかった。だが、そんなネクタスでも一時的に意識が蘇ることがある。誰も牢獄を訪れることないまま数日が経過すると、ナノマシーンの効力が僅かに切れ、ほんのひとときだけ意識が牢獄から解放されるのだ。
ネクタスがいるのは、本来は洞窟でもなんでもない、灰色に染められた真四角の空間だった。勿論窓もなければ空間を癒してくれるような置物もない。ただの「空間」。それでしかなかった。だが、そんな空間でさえネクタスには天国に感じられる。あのゴツゴツとした洞窟の中で、口喝に喘ぎ、血反吐を吐き、全身の痛みに苦悩するよりは。
一体、もう何日ここにいるのだろう。
ネクタスはそれさえ分からなくなっていた。今が何月で何日なのかも分からない。サルジェは無事、スレイドと会えたのだろうか。シオンに渡した伝言を、受け取ることが出来ただろうか。自分と同時期に捕らえられたジョリスは、一体どうなったのだろう。おそらくはジョリスの方が酷い拷問を受けているだろうから、もしかしたらすでに命を落としているかもしれない──。
ネクタスは溜息をつくと、僅かに体を動かした。実際に暴行を受けているわけではないのに、神経のすべてが締め上げられるように痛んだ。体に受けた傷であれば、時が経過すれば治癒される。しかし、神経に刷り込まれた痛みは、どうにも癒しようがなかった。
まったく──アーシアンとは恐ろしいことを考える人種である。人を苦しませることの本髄を知っていて、それをわざとしているようにさえ思えた。そして、無関心化するエデンの人々。この星にアーシアンを生み出した存在は、今のように腐りきったエデンの状況を知っているのだろうか。それ以上に、元老院はどう考えているのだろう。現状を危惧してはいないのだろうか。
ネクタスはそう考え、急に自分の考えが可笑しくなった。
そんなことを今考えても、自分は何が出来るわけでもない──命が終わるのを、ただ待つことしか出来ないのだから。
だがせめて──。
せめてティナだけは、助けて欲しい──ネクタスはそう思った。
ティナ。一体今頃、どうしているのだろうか。
獣のようなレイゾンに、ひどい仕打ちを受けていないだろうか。
それだけが、ネクタスの気がかりな点であった。
そして、もうひとつ。
もうひとつ、ネクタスには「どうしても伝えたい」ことがあった。
それは──シリアに謝罪することである。
自分は確かに、サルジェにはすべてのことを擲(なげう)った。自分のすべてを賭けて、サルジェを守り抜いたと言い切れる自信はある。
だが、ティナにはどうだろうか?
ティナに対して、自分はサルジェほどの愛情をかけてあげることが出来ていただろうか?
ティナも、シリアが産んだ──しかも、実際に自分の腹を痛めて産んだ子供だ。だが、その成長を見ることなく、シリアは殺されてしまった。まだ1歳にもなっていないティナを残し、シリアは天に召されてしまった。
その後、養女としてティナを育ててきたが……自分の本心を深くまで掘り下げた時、どこかに「憎悪」があったのではないか、ネクタスはそう思った。ティナを娘として受け入れられない心情が、心の奥底に隠されていたのではないだろうか。そう思うと、今ティナに起きている顛末はすべて自分のせいだと思えて仕方なかった。
──私は偽善者だ。
ネクタスはそう心で呟くと、ティナへの申し訳なさとシリアへの想いから涙を零した。
* * *
ネクタスがアカデミーの学生だった頃。思えば、あの頃がもっともエデンが活気づいていた頃だったかもしれない。ヒューマノイドとの軋轢(あつれき)はあったが、今ほどエデンがヒューマノイドの暮らしに介入することはなく、ヒューマノイド達も自分達で自由に暮らしていた。レドラの住民達との交流は続けられていたし、レドラの住民は心穏やかな人も多くて、エデンとの関係性を崩そうとするようなことを目論む者もいなかった。
当時は、今以上にレドラとエデンの交流は盛んだったと言えるかもしれない。飲酒が禁止されているエデンから出て、レドラで飲み歩くようなアーシアンも大勢いた。もっとも、ネクタスは品行方正な家庭環境に育っていた為、噂でレドラを遊び歩くアーシアンの話を聞いても自分が実際に行ったことはなかったし、また同時に行きたいとも思っていなかった。当時の彼の興味はすべて遺伝子工学に注がれており、特にカタストロフィー前に生存していて、その後絶滅したとされる生命の復活に力を注いでいた。それ以外にも、環境悪化が進んだ土地を回復出来るような植物のDNAデザインをするなど、地球が生まれ変わる為に出来る遺伝子工学の実験に夢中だったのだ。
そんなある日のことだった。
講義を終えて研究室に戻ったネクタスの目に、あるものが見えた。それはホログラムに書き出した公式で、インフェルン大陸における猛毒の沼地を清浄化させる植物をデザインする公式だ。猛毒をどのように分解することが出来るのかを模索していたのだがそれがなかなかに難しく、途中で講義の時間となった為、中断して研究室を出たのだった。
ところが、その途中の公式が何故か「完成している」ではないか。
ネクタスは何度も瞬きした後、ホログラムを巻き戻して公式の一部始終に目を通した。何度見返しても、完成している。ネクタスは絶句したまま、身を退かせた。
「まさか……誰が、こんなことを……」
そう呟いた、その時。
「公式はすでに、ほとんど出来上がっていた。だが、生物のDNAということに着眼しすぎていて、『生命の神秘』を見逃していたんだ。だから俺が、そこを付け足してやったに過ぎない」
背後から聞こえた声に驚いて振り返ると、そこには輝く金髪を肩で靡かせ端正で凛とした顔立ちの青年が立っていた。ネクタスは「どこかで見たことがある」そう思いながらも振り返った。
「君は、一体──?」
自分を知らないネクタスに余程驚いたのか、青年はプッと吹き出して言った。
「さすが──研究馬鹿は違うな。俺のことを知らないとは。『ヴァルセル』って名前ぐらいは、聞いたことがあるだろう?」
その名を聞いた瞬間、ネクタスは愕然としてしまった。
ヴァルセル。10歳にして元老院入りし、15歳まで皇帝アグティスと一緒に暮らしていたと噂される人物。頭脳明晰で、彼のカリスマ性も噂になっていた。
同時に、あまりよくない噂も聞いている。ヴァルセルは非常に傲慢で、気に入った者には親切に接するが、一度気に入らなくなると掌を返したように冷酷になると。また、レドラでも派手に遊んでいて、飲酒は勿論、女性遊びも派手だと言われる程だった。そのため、当初は後継者に考えられていたが、本人の拒否もあったとはいえ却下されたと最近になって耳にした。
「どうした? その表情は、俺が何者か知ってぐうの音も出ないっていう顔か?」
ヴァルセルは笑って言った。自分が大物であることを自覚しきっているような台詞だ。
「い、いや……。それよりも、何で君が私の研究室にいるのか、そっちの理由を知りたくて──」
「いちゃいけないっていう決まりでもあるのか?」
「い、いや、そういうわけでは……」
言葉に詰まるネクタスを見つめながら、ヴァルセルは研究室の中を歩いて回った。模型を手にしながら答える。
「近々、ある『プロジェクト』が発表される。あんたに立候補してもらいたくて、誘いに来たんだ」
「プロジェクト?」
聞き返すネクタスの前で、ヴァルセルは模型を置いた。
「ああ。すごく重要なプロジェクトだ」
「それは、皇帝アグティスからの指令なのか?」
ネクタスの問いに、ヴァルセルは声をあげて笑った。
「皇帝以外の指令は受けない気か? ちなみに、俺からの指令ということは皇帝からの指令と同じことだぞ」
「いや、それはそうかもしれないが──しかし、何で初対面の私に……」
ネクタスが不思議そうに眉根を寄せると、ヴァルセルはしたり顔で壁に背をついた。
「ヒューランド学長の自慢の甥。そして、遺伝子工学の天才と謳われていたが二年前に起きた研究室の爆発事故に巻き込まれ命を落としたフィエルンの息子、ネクタス。それってあんたのことだろ?」
「あ、ああ……、そうだけど。でも、私は父のような才能を持ってはいない。ただ研究するのが好きなだけの凡人だよ」
「ずいぶんと謙虚なんだな。いや、この場合自己卑下というべきか」
ヴァルセルはそう言って、テーブル脇の椅子を引くと腰を下ろした。脚を高く組み、ネクタスを見上げる。
「俺が求めているのは、『才能』よりも『誠実さ』だ。このエデンに──いや、この惑星に対して、より良い未来を築き上げようとすることが出来る誠実さと情熱。あんたにはそれがあると思ってここを訪れたんだが……それは俺の見当違いか?」
「いや、それは何て言うか──肯定も否定も出来ない。正直言って、初対面の私をどうして君がそこまで評価しているのかが分からないし、買い被りの可能性だってある」
「案の定、誠実だな」
そう言うと、ヴァルセルは勢いよく立ち上がった。
「すぐに答えろとは言わない。もう2、3日でことが動きだすから、それを見てから答えてくれればいい」
そう言って去ろうとするヴァルセルを、ネクタスは慌てて引き止めた。
「ま、待ってくれ! 答えを出すと言っても、君はどこにいるんだ」
すでに研究室から出かかっている体を振り向かせ、ヴァルセルは笑って言った。
「あんたが『答えを出した時』、俺はきっと『そこ』にいるだろう」
謎めいた言葉を残すと、そのまま研究室を後にした。
それが、ネクタスとヴァルセルの最初の出逢いだった。あの当時、ネクタスは17歳。そして、ヴァルセルも17歳。皇帝アグティスの元を出て2年後のことだった。
当時ネクタスはアカデミーのフィフス(5年目)だったが、ヴァルセルは飛び級ですでに卒業していた。彼は数学だけでなく、アカデミーで学べるすべての知識を網羅したとまで聞いた。だが、何せ素行が悪く、週に一回はレドラで派手に遊んでいると耳にした。その遊びに付き合わされているセインという友人は、成績不良でアカデミーを退学になったともっぱらの噂である。
ネクタスは、この出逢いが良い出逢いなのか、はたまた波乱をもたらす出逢いなのかよく分からなかった。退学になったセインという青年に同情するし、仮に自分がその立場になったとしたら、生命のデザインが生き甲斐の自分は生きる糧を失うに等しいことになる。
──否。きっと「それはない」。
ネクタスはそう思い返した。何故なら、生命をデザインすることは自分にとって「命そのもの」だからだ。生命をデザインすることで、自らの命をその生命に宿している──いわばそれらの生命は子も同然だった。
だから、そんな生き甲斐をあのヴァルセルが奪おうとするなら、自分は全力をもってそれを阻止するだろう──それだけの芯の強さと覚悟が自分にはある、ネクタスはそう思った。
ヴァルセルとの出逢いを奇妙に思いつつも、ネクタスはDNAデザインした生物達を育成している施設へと足を向けた。薄暗い空間に一歩踏み入れると、そこには輝く金髪を腰まで伸ばした華奢な女性の後ろ姿が見えた。
ネクタスの身体が僅かに強張(こわば)る。今までに何度も見ている光景だが、何故かいつもこの瞬間は緊張してしまうのだ。だが、そんな緊張は気のせいだと言わんばかりにかぶりを激しく振ると、女性に気づかれるようわざと足音をたてて近づいた。
背後から近づく足音に、女性が振り返った。大きな翡翠色の瞳に、その瞳を囲う長い睫毛。何度も瞬きをしてから笑顔を浮かべ、ネクタスにこう言った。
「遅かったじゃない。何かあったの?」
「いや、別に。ちょっと珍客がきてね……」
珍客。
確かに、今のネクタスにとってヴァルセルは「珍客」としか言いようがなかった。女性は怪訝そうに顔を歪める。
「誰? 珍客って」
「ヴァルセル……って、君も知っているだろ?」
女性は何の気なしに頷いた。
「ええ。有名人よね」
まるで「興味ない」といった素振りだ。
「彼が、突然来たんだ」
その言葉にはさすがに驚きを隠せなかった。
「ヴァルセルが? どうして?」
「私にもよく分からないんだ。だが、『あるプロジェクトを立ち上げるので、それに立候補して欲しい』って言われた」
「プロジェクト?」
女性は怪訝そうな顔をしたまま、装置に寄りかかった。
「どうしてあなたに、それを依頼してきたのかしら……」
「おそらくは父の七光りだよ。あとは叔父のね。私には何の才能もないのに……」
そう言って顔を伏せるネクタスに向かい、女性はそっと手を差し伸べた。女性の暖かな掌が頬を包んだ時、ネクタスの心臓は高鳴りすぎて飛び出しそうな勢いだった。
「そんなことないわ、ネクタス。あなたはすごい才能の持ち主よ。あなたが今まで生み出してきた環境良化の生命や、蘇らせた生命は数多くいるじゃない? あなたの手は神の手と一緒よ」
そう言って、女性はネクタスの手を握った。ネクタスは感情が抑えきれなくなり、彼女の手を握り返した。
「シリア……」
自分がした行動に驚きすぎて、思わず手が震え出してしまった。そんなネクタスを見て、シリアはニッコリと微笑んだ。
「さぁ! 遅れを取り戻しましょう。やることはまだいっぱいあるわ」
そう言ってネクタスを装置の前へと導いた。
シリアはラフィールを祖とする血筋にあり、直毛で翡翠色の瞳が特徴的だった。シリアはネクタスより一年後輩だが、同じ遺伝子工学を専攻し、その上非常に優秀だったので、ネクタスが属する研究チームに配属されたのだった。
アカデミーに所属する女学生はただでさえ美しい容姿の人物が多かったが、その中でもシリアは群を抜いていた。否、見た目だけではないかもしれない。彼女の慈愛あふれる態度、声、調和を求める性格、どれをとっても美しいと評価できるものだった。
そんなシリアに、ネクタスはいつしか想いを寄せるようになっていた。しかし、自分とシリアは不釣り合いだ──ずっとそう思っていたのだ。
ネクタスはガブリールの血筋で、その血筋の者はウェーブした髪が特徴的だが、ネクタスの場合はそれが癖っ毛となってしまいひとつにまとめないと収集がつかなくなってしまう。また、ガブリールの血筋はガブリール自身が女性だったからなのか、女性の場合は容姿が美しくなるが、男性の場合は時折見た目が野暮ったくなる人物も生まれることがあった。自分はその典型例だと、ネクタスは常に思っていた。甥のヒューランドも、父のフィエルンも上品で優れた容姿の紳士なのに、何故自分だけ見た目がこんなに野暮ったくなったのかと思うことが度々ある。フィエルンは結婚しておらず、DNAバンクから遺伝子操作でネクタスを誕生させた為、きっと容姿に興味を持たず「そこは適当に」デザインしたに違いない。ああ、そうだ、父ならやりかねない──ネクタスはそう確信した。
シリアに思いを寄せる男性は大勢いる。以前、シリアに贈り物をしている同僚を見たこともあった程だ。シリアは丁寧に礼を述べていたが、デートの誘いには容赦なく断っていた。
「ごめんなさい。その日は、ネクタスと研究の続きをする約束があるの」
そんな約束していないのに──口をあんぐりとあけたネクタスを、袖にされた男性は力強く睨みつける。嫉妬と屈辱と──様々な感情が入り混じった表情だ。
しかしシリアはさらりと交わし、ネクタスの元にやってきた。
「さぁ、また続きを始めましょう」
そう言われ、ネクタスはただ頷くしかなかった。
ネクタスの元に珍客が来てから1週間ほどした頃のことだった。ネクタスが研究室に行くと、見慣れない存在がいた。痩せていて目が窪み、顔色の悪い人物。ネクタスが苦手なグローレンだ。
「どうした。何か用か?」
ネクタスが手にしていた資料をデスクに置きながら問うと、グローレンはこう言った。
「あの『噂』聞いたか?」
「噂? 何の噂だ」
「『後継者プロジェクト』さ」
「後継者プロジェクト?」
その時、ネクタスの脳裏にある記憶が蘇った。
それは、ヴァルセルが言った言葉だ。「近々、あるプロジェクトが発表される。それに立候補してもらいたい」と。
「一体、どんな内容なんだ」
ネクタスの問いに、グローレンはフンと鼻を鳴らした。
「文字通りの内容だ。『後継者』をクリティカンでデザインするプロジェクトさ」
「後継者って、アグティス皇帝の? それなら、すでにソレーユという少年がいると──」
「奴は後継者でないらしい」
それを聞いて、ネクタスは眉間を寄せた。未だにソレーユはアグティスと共にいる。噂では、ヴァルセルが教育係をしているというではないか。後継者にならない少年を、未だ皇帝のそばにいさせる理由など果たしてあるだろうか?
「それって、正式な発表なのか?」
「ああ。ネルビス元老院からの発表だから、正式なものなのだろう」
「ふむ……」
ネクタスは考え込んだ。
ネクタスはそもそも「クリティカン」という存在を造ること自体に反対だった。そのため、生命デザインをしていても、一度もクリティカンを造ったことはない。
クリティカンとは、いわゆる「人造人間」である。父もなければ母もない。あるのはオリジナルだけで、そのオリジナルの優秀な側面だけを引き出してデザインした存在がクリティカンだ。
だが、その多くはほとんどが奴隷のような扱いを受けている。もともとのオリジナルではない分、量産されても倫理的に問われることはない。そのため、アーシアンが嫌がるような製造業でヒューマノイドだけでは賄いきれない部分を、このクリティカンで埋め合わせすることが多いのだ。
「しかし、何故後継者が『クリティカン』なんだ? 今の元老院や、アーシアンであってはいけない理由は、どこにあるんだ?」
「それは、『エデンの慣習を変革する為』さ」
その答えは、グローレンの口から出たものではなかった。背後から聞こえた言葉に振り返ると、そこにはヴァルセルが立っていた。ネクタスは愕然と目を見開いた。
「君は……」
「言っただろ。『君の答えが出る時、俺はそこにいる』、って」
そう言って笑うヴァルセルを、もうひとり震える目で見上げる存在がいた。グローレンだ。
「ま、ま、まさか、ヴァルセル様がここに来るなんて……」
初対面だったグローレンは、ヴァルセルに敬語を使う程位の高い存在だと思っていたようだ。しかし、ヴァルセルはグローレンなど目にもくれない。
「悪いが、俺はネクタスに話があるんだ。二人きりにさせてくれないか」
そう言われ一瞬顔を顰めたグローレンだったが、すぐに身を引いて研究室を後にした。悔し紛れか研究室のドアに八つ当たりするグローレンを鼻で笑った後、腕を組んでこう尋ねた。
「──で。もう出たんだろう、答え」
「さっきの『後継者』の話か?」
ヴァルセルは無言でうなずいた。
「悪いが──それなら答えは『NO』だ。私は、クリティカンの育成に反対している。ましてや元老院やソレーユという少年だっているのに、何故わざわざクリティカンを育成して後継者を育てなければならないんだ」
「その件だが、ソレーユは後継者候補ではない」
顔を僅かに上げ、ネクタスを見下すような目でヴァルセルは言った。
「それにそもそも、ソレーユが『何者か』を、君は知っているのか?」
ネクタスは言葉に詰まった。研究三昧の彼にとって、エデンの政治は二の次だった。だから、後継者の少年がいるというのも小耳にはさんだだけで、詳しいことは何もしらない。
「い、いや、知らない──」
そう言うと、ヴァルセルは腕組みをしたまま瞼を閉じてニッと笑った。
「彼が『何者か』を知ったら、君はおそらく発狂するか──或いは『すべてが信じられなくなる』だろうね」
「どういう意味だ」
ネクタスが身を乗り出したところ、それをヴァルセルが手で遮った。
「俺は今、そんなことを話に来たんじゃない。それよりも、君に『後継者プロジェクトに参加するか、否か』を問うてるだけだ」
「その答えなら、さっきも言ったはず。答えはNOだ! 何度お願いされようと、絶対に『NO』だ!」
はっきりと言い切ったネクタスを、ヴァルセルは何故か余裕の笑みを浮かべて見つめていた。
「──そうか、わかった」
それだけ言うと踵を返し、ネクタスから遠ざかる。あまりにあっけない幕引きで、ネクタスの方が動揺した程だ。
「お、おい。ヴァルセル──」
ヴァルセルは後ろ姿のまま手を振ると、研究室を出ていった。
* * *
それから3か月もしないうちに、「後継者プロジェクト」の件は公(おおやけ)に発表された。ヴァルセルの提案だ、とネクタスは聞いていたが、表向きは「アグティス皇帝の指令」となっていた。誰かが裏工作したのか、或いはアグティスの恩情なのか、それはよく分からない。
だが、ネクタスはヴァルセルと出逢って以来、「皇帝アグティスとは、本当は何者なのか」を考えるようになっていた。エデン創設時から名のある存在。それは「永遠不滅」の存在なのか。仮に「生きた存在」であれば、とっくに死んでいておかしくない。
もしくは、かつての人類が「神」と崇めたような存在なのか。否、仮にそうなら「後継者」自体が必要なくなる。永遠にアグティスのままでいいはずだ。
思えば、このエデンはかなり「思考操作」されていることをネクタスは実感した。
誰もが、アグティスの存在の矛盾について暴こうとしない。その話題を避けるか、或いは踏み込まないようにコントロールされているかのようだった。
だが、あの高慢で自信過剰なヴァルセル(初対面のヴァルセルの印象は、ネクタスにとって「とにかく嫌な奴」でしかなかった)に出逢って以来、どうしてもそのことが頭から切り離せなくなってしまったのだ。
何度か、ヴァルセルとの対面を試みた。しかし、神出鬼没な彼は、捕まえようとすると途端にするりと交わしてしまうようなところがあった。連絡しようにも、連絡先も分からない。そもそも、このエデンにいるかだって分からない。もしかしたら、またレドラで遊び歩いているかもしれないのだ。
ところが──。
思いがけないところで、彼と三度目の再会を果たした。しかしそれは、ネクタスにとってはあまり望ましくない場面だった。
ネクタスが自分の研究所に向かう途中、中庭で二人の男女が向き合っていることに気が付いた。すごく親密そうに、かつ、そのまま体を抱擁(ほうよう)しあってもおかしくないぐらいの位置で話している。
本来、アカデミー内でそうした異性との行為は禁じられている。もともと遺伝子操作によって生まれる社会故、性衝動がない者の方が多い。何故なら、生まれる前にそうした衝動をすべてコントロールされてしまうからだ。
だが、最近では性衝動を残したまま誕生する存在が増えて来ていた。ネクタスは、自分がそのうちの一人であることを自覚している。何故なら、自分の後輩であるシリアに、強く想いを寄せていたから。そして、シリアに恋をする同僚たちも自分と同じく性衝動のコントロールをされない状態で産まれてきているのだろう。
一時期は遺伝子操作のみで誕生していたアーシアン社会だが、最近になって「自然出産」が注目され始めたのだ。性行為で産まれた胚を遺伝子操作した後に、再び女性の子宮に戻して10か月間子宮で育て、そして分娩する──。
おそらく、目の前の男女もそうした二人に違いあるまい。
そう思ったが──ひとりの姿を見た時に、ネクタスは動揺せずにいられなかった。
そこにいたのは、シリアだったからだ。
シリアがあのように他の男性と親密そうな態度を取る姿を見るのは初めてだ。そして、その相手こそが──自分が探し求めていた人物、ヴァルセルだったのだ。
ネクタスの中で、嫌な感情が廻った。嫉妬という感情を、彼は生まれて初めて体験した。いつだってネクタスは、遠くからでしかシリアを見つめることが出来なかった。声をかけるのも気が引けて、わざと足音をたてて近づき、シリアに気づいてもらうのを待つぐらいしか出来ない程にまで。
それなのに、目の前であのヴァルセルは顔がくっついてしまいそうな程シリアに近づき、囁くように話をしている。そして、シリアも笑顔で彼を見上げているのだ。
ネクタスの中で、表現のしようがない感情が爆発しそうになった──その時。
「ネクタス!」
シリアの鈴のような声が響いた。ネクタスが二人を見つめて小刻みに震えている様子など微塵も気に止めず、シリアはまるで小鹿のように軽やかに走り寄って来た。
「どうしたの? 冷汗かいているけど……具合が悪いの?」
「あ、ああ。いや、大丈夫だ」
ネクタスはそう言って、シリアを見た。
目の前にいるシリアは「いつものシリア」だった。優しく笑みをたたえ、自分をまっすぐ見つめてくれている。ネクタスの中で爆発しそうだった嫉妬の感情は、みるみるうちに萎んでいった。
「あんたを待っていたんだ」
離れた場所に立ったまま、ヴァルセルが言った。
「私を?」
「ああ」
そう言うと、ヴァルセルは両サイドのポケットに手を突っ込んだまま、ネクタスに近づいて来た。
「このあいだの返事、気が変わったかと思ってな」
「あ、ああ。その話か。それなら、悪いが答えは相変わらず『NO』だ」
「どうして? とてもいい話じゃない!」
すかさず割り込んできたシリアの言葉に、ネクタスは愕然とした。怯えるような目でシリアを見ながら、ヴァルセルに問うた。
「……話したのか?」
ヴァルセルは鼻で笑った。相変わらず、どこか見下されている感のある笑い方だとネクタスは思った。
「すでに公式発表されているんだ、誰でも知っている話さ。君が知らないだけで、立候補している研究者は大勢いるぞ。その中には、君が苦手なグローレンも入っている」
「グローレンが? あいつが、プロジェクトに採用されるのか?」
「採用基準は何もない。『いい後継者を作れるか否か』の結果論でしかないからさ。つまり、後継者同士の中で選抜が決まるだけで、それを生み出す方に基準は何も設けていない」
「もしそれで、採用基準からもれた後継者候補はどうなるんだ? まさか殺す気か?」
「そんな野蛮なことはしないさ。すでに後継者という時点で、優秀なクリティカンであることは約束されている。他の重要な任務につくことが出来るだろう」
「しかし──」
ネクタスが言い淀んでいる最中、シリアが笑顔でこう言った。
「私は必要なことだと思うわ。だって、今のエデンが『理想の社会』だとは到底思えないもの。それに、このままヒューマノイドを迫害したままでいるつもり? ヒューマノイドの迫害は、アグティスの命だと聞いているわ。それなら、アーシアンとヒューマノイドの格差を埋めることが出来るような指導者が必要なのよ。それには、今のアーシアンや元老院からは生まれない。人造人間であるクリティカンに頼るしかないと私は思うの」
熱く語るシリアを見て、ヴァルセルは満足したように笑った。
「ほらどうだ、ネクタス。君なんかよりも、女性であるシリアの方がよっぽどエデンの社会について考えているじゃないか」
──お前が口説いて、その気にさせただけじゃないのか。
ネクタスはそう言いたかったが、シリアの目の前でそれを言える勇気はなかった。
「ヒューマノイドの迫害については、私も賛成だ。だが、やはり人造人間の育成には反対だ。しかも、その後継者同士で争わせるようなことをするのも反対する。だから、やっぱり答えはNOだ」
ヴァルセルは眉尻を下げてお道化るように首を傾げた。
「やれやれ。君の先輩はどうにも頭が固いね」
シリアにそう言うと、彼女の肩をポンと叩いてヴァルセルは遠ざかって行った。
それを機に、ヴァルセルがネクタスの研究所を頻回に訪れるようになった。その上、ネクタスを口説けないことが分かったからか、一直線でシリアの元に行く。シリアは全く警戒心の無い様子で、ヴァルセルのことを受け入れていた。仲良く喋る二人の姿を、同じくシリアに恋をしていた同僚達は嫉妬の目で見ていたが、「相手がヴァルセルでは、勝ち目がない」というのが全身で伝わってくるような表情だった。
勿論、ネクタスだっていい気はしていなかった。時々、「ここは研究所だ。研究に関係ない話であれば、外でしてくれ」と諫(いさ)めたりもしたが、ヴァルセルは一向に気にしない。それどころか、シリアも「これは研究に関係あることよ」と彼の肩を持ってしまうので、如何ともし難かった。
今日も二人は、至近距離で話をしていた。ふと、ヴァルセルがポケットから何かを取り出した。
「昨日、レドラで買ったんだ」
そう言って、ネックレスをシリアの首につけた。ネクタスは爆発しそうな動悸を内側に抱えたまま、横目で二人の様子を窺っていた。シリアは嬉しそうに笑うと、ヘッドについている模様を指で触った。
「これは──ユリの花ね」
「ああ。君によく似合うと思ってね」
「嬉しいわ、どうもありがとう!」
ネクタスは、シリアがヴァルセルに抱きつくのではないかと気が気ではなかった。しかし、シリアの次の行動は意外なものであった。
「でもね、私が好きな花は『コスモス』なの」
それを言われてもヴァルセルは、気に止める様子もなかった。その言葉で、ネクタスは「シリアは、自分が思っているような軽々しい女性ではない」ということを知り、僅かに安堵した。
シリアには少し、変わっているところがあった。性衝動がコントロールされないで産まれてきているアーシアンは、女性にも大勢いる。しかし、シリアは明らかに「コントロールされているだろう」と思われるところが多々あったからだ。
そもそも、アーシアンの中でも群を抜く美青年であるヴァルセルにあれだけ接近されたり、贈り物までされて袖に振る女性はそうそういないだろう。ヴァルセルに恋い焦がれている女性は多いと聞くが、ヴァルセルはその誰をも相手にしていなかった。ネクタスはシリアに恋をする者として、はっきりと確信していた。「ヴァルセルは、シリアに恋をしている」と。
だが、シリアは全くそのことに無頓着なのだ。後継者プロジェクトへの参加をシリアも立候補するつもりでいるようだが、それはヴァルセルの行為とは全く関係ない、彼女の「理想」に過ぎなかった。
ネクタスは薄暗い研究所の中で大きく溜息をついた。目の前には、自分がDNAデザインをした「環境良化」のための植物が培養器の中で細胞分裂している。ほのかに光る青白いライトの中で、装置の側面に写った自分の顔を見つめた。
何度見ても、野暮ったい容姿だ──ネクタスは思った。
父は何故、性衝動をそのまま残して、容姿を端正にデザインしてくれなかったのだろう。もしくは、この容姿にするのであれば性衝動をコントロールしておいて欲しかった、そう思う。
このままこの研究所で、シリアとヴァルセルを見ているのが辛い。いくらシリアが鈍い感性の持ち主だとはいえ、あの容姿のヴァルセルに何度も口説かれていれば、そのうちその気にならないとも限らない。見ているだけで「お似合いのカップルだ」と断言できる二人だ。そうなった後の二人のそばにいることなど、到底考えられない──それこそ発狂してしまいそうだと、ネクタスは思った。
そこで、ひとつの決断を出した。
──この研究所を出よう、と。
そうすれば、もうあの二人のことを見ていなくて済む。いつヴァルセルが訪れるかとびくびくしていなくて済む。
姿を見なければ──自分の中にあるシリアへの恋心も、いずれは消えてなくなるだろう、そう願った。
そう決意した、その時。
偶然にして、シリアが研究所を訪れた。ネクタスの後ろ姿を見た時に、大きく目を見開く。
「ネクタス、まだ残っていたの? みんな、もう帰ったわよ」
「あ、ああ。ちょっと考え事をしていてね」
ネクタスはあまりシリアに目を向けないように呟いた。彼女の姿を見てしまったら、決意が揺らぐかもしれない──それが怖かったからだ。シリアはそんなネクタスの気持ちに気づく気配もなく、近づいて来た。
「どんな考え事?」
彼女の気配を、間近に感じる。装置の側面に、ネクタスの背後に立つシリアの姿が写し出された。シリアは左手を伸ばし、ネクタスの肩に優しくおいている。
鼓動が激しくなった。全身が熱くなるのを感じながら、ネクタスはこう告げた。
「わ、私は、ここから去ろうと思う」
意外な言葉に、シリアは目を見開いた。ネクタスの顔を覗き込んで問いただす。
「どうして?」
シリアの目を見ないように、ネクタスは視線を逸らした。
「こ、ここではなく、研究棟βの方が私の研究に向いていると聞いたからだ」
「なら、私もそこに行くわ」
シリアは平然と言う。ネクタスは激しくかぶりを振った。
「駄目だ!」
「どうして?」
シリアはネクタスと向き合えるよう、彼の真正面に廻った。ネクタスの顔に汗が噴き出しているのを見て、指で拭いながら言う。
「『二人で悪化した環境を元に戻そう』って、そう約束したじゃない。あなたは私にとって、大切な研究パートナーなのよ」
「いや、駄目だ! 君はここに残るべきだ! 私と一緒に来るべきではない!」
「どうして!」
さすがのシリアも声を荒げていた。
「どうしてそこまで私を拒否するの? 私が何かした?」
シリアに両肩を掴まれ、真正面から見つめられ──ネクタスはもう堪えきれなかった。だから、想いをついに爆発させてしまった。
「君とヴァルセルが話している姿を、これ以上私は見ていられないんだ!」
シリアは愕然と目を見開いたが、やがて穏やかな表情へと変わった。瞳を潤ませ、弱々しく笑う。
「私が『ヴァルセルのことを好き』だと──そう思っていたの?」
「い、いや。そこまでは思っていない。だけど──私個人が、君達二人の姿を見るのが、耐えられないんだ」
「どうして?」
まるで誘導尋問にかかったかのようだった。
でも、それで良かったのだ。ネクタスにとっては「今こそ」が、気持ちを打ち明けるべき時だったから。
「私が──君を……愛しているから」
次の瞬間。
今まで見たことがない程の嬉しそうな微笑みを、シリアは浮かべた。幸福そうに笑うと、そのままネクタスに抱きついた。頬を寄せ、耳元で囁く。
「私もよ、ネクタス」
何が起きたのか分からなかった。
動悸が徐々に静まり、頬からシリアの熱が伝わってくる。
──今、彼女は何て言った?
ネクタスは自分に自問自答した。だが、理性よりも感情がすでに祝福をしてくれていた。
二人は相思相愛だったのだ──と。
「ここの研究所を去るなんて、そんなこと言わないで。私の想いは、常にあなたのところにあったのよ。ヴァルセルではないわ」
「わ、私もさすがに、君がヴァルセルを好いているとは思っていなかった。でも、彼ほどの人物から言い寄られていたら、いずれは君だって──」
「私を軽く見ないで!」
凛として言い放つと、シリアは顔を離して真正面からネクタスを見つめた。
「私の両親は、遺伝子操作をした後『自然出産』で私を産んだの。だから勿論、私も性衝動をコントロールされていないわ。私は愛する人を選んで、その人と共に歩くことが出来るのよ。そして、私が選んだのは──ネクタス。あなたなのよ」
「シリア……」
ネクタスが立ちすくんでいると、シリアは再び強く抱きしめて来た。そして、ネクタスの唇にキスをする。生まれて初めての感触を、ネクタスは目を閉じて感じ入っていた。
* * *
互いの想いを認識しあった後、ネクタスはもうその想いを隠すことをしなくなった。周囲の同僚からは恨むような目で見られたが、しかしアーシアンは感情よりも理性が優位に立つ。ネクタスに嫌がらせしたり困らせるようなことをする者は、誰もいなかった。
それから数か月の間、ヴァルセルの姿をアカデミーで見ることはなかった。噂ではセインと一緒にヒューマノイドタウンを廻っていると聞いたが、何が理由か、何をしているのかまでは誰も知らなかった。
そんなある日、ネクタスがひとりで研究所にいた時、ふいにヴァルセルが訪れた。ネクタスもシリアとつきあうようになり心の余裕ができたせいか、ヴァルセルの来訪を快く受け入れることが出来た。
「久しぶりだな、ヴァルセル」
「ああ。研究は進んでいるか?」
そういうと、ネクタスの肩を叩いて彼の背後にあった装置を覗く。
「ああ、順調だ」
すると、ヴァルセルは小さく首を振る。
「お前のじゃない。『後継者プロジェクト』の方さ」
「あ、ああ……、その話か」
ネクタスは言葉を言い淀んだ。
あれ程までにプロジェクトの参加を拒否していたネクタスだったが、先日、シリアが立候補してしまったのだ。二人は、シリアがアカデミーを卒業したら結婚するという約束を交わしている。まだ公表はしていないが、そう約束している間柄である以上、シリアの研究にネクタスも参加せざるを得なかった。
「デザインの構成は出来た、と言っていた。DNAはシリアのものを使う。すなわち、オリジナルがシリアだ」
それを聞きながら、ヴァルセルは装置に寄りかかり腕を組んだ。
「シリアは確か、ラフィールの血筋だよな」
「あ、ああ……。そうだけど、それが何か──」
驚いてヴァルセルを振り返るネクタスに向かい、ヴァルセルはふっと笑みを浮かべた。
「上出来だ」
「上出来? どういう意味だ」
その時。
ヴァルセルは、今まで見せたことがない程真剣な表情をしていた。ネクタスを見つめ、何かを考えあぐねているようだった。
「どうかしたのか?」
「お前、『エデンに隠された真実』について知りたいか?」
意表を突いた言葉に、ネクタスは顔を歪めた。
「どういうことだ?」
「言葉通り──それ以上でも、それ以下でもない」
エデンに隠された真実──。
この都市が様々な矛盾を抱えていることに気づいたネクタスにとって、それはとてつもなく魅力的な言葉だった。しかし、容易に受け入れてしまって果たしていいのだろうか? それを知ることによって、自分の立場や命が危ぶまれることはないのだろうか。
返答を迷うネクタスを見て、再度ヴァルセルが問う。
「どうした? 知りたくないのか」
悩みぬいた末、ネクタスはかぶりを振った。
「い──いや、『知りたい』」
ヴァルセルはネクタスを真正面から見つめた。あまりにじっと見つめられて、思わずネクタスは視線を外す以外なくなる程に。
「今から伝える話を、お前は『誰にも話さない』と誓えるか?」
「そ、それは、どういう──」
「もう一度聞く。『誰にも話さない』と誓えるか?」
──ヴァルセル。皇帝アグティスの正体を唯一知っている存在。そして、ソレーユのことも。
ネクタスは恐る恐る頷いていた。
「……ああ、誓う」
「本当だな」
「ああ」
「シリアにも黙っていられるか?」
その言葉を聞き、ヴァルセルが「ネクタスとシリアがつきあっている」ことを知っていると確信した。だが、今の彼からはシリアに向けていた恋愛感情など微塵も感じさせない。それどころか、何か重大なことをしようとしている雰囲気がにじみ出ていた。
深くネクタスは頷いた。
「ああ、約束する」
その言葉を聞いて、ヴァルセルは安堵したように笑った。しかし、面持ちは緊迫したままだ。
「ついて来い」
そう言うと、その場で踵を返した。
ネクタスが連れていかれたのは、アカデミーから遠く離れた別棟だった。ヴァルセルは扉を開き、中に入った。ネクタスもそれに続く。
中は何も置かれておらず、寂れた空間だった。かつては研究棟だったのだろうが、今は使われていないというのがよく分かる。
「ここに、何かあるのか?」
ネクタスが問うと、ヴァルセルはポケットから小型サイズのコンソールを出した。いくつかの公式を打つうちに、突如目の前に扉が現れた。
「これは、俺の『持ち運びアジト』さ。その土地の周波数と同調させ、ワームホール内に空間を作っている」
「何だって? そんなこと、出来るヤツいるのか?」
ヴァルセルはにやりと口角をあげた。
「俺の友人は『天才ぞろい』でね。数学、量子力学、物理工学──そして、遺伝子工学の君もね」
──私は君の友人になった覚えはないぞ。
そう言いたかったが、何となく言いそびれてしまった。図々しいところは大いにあるが、憎めない側面もある。そんなヴァルセルに、ネクタスは少しずつ惹かれ始めていた。
室内に入ると、中にまたコンソールがあった。その周囲を取り囲むように椅子が並んでいる。
「座ってくれ」
なんだかまだ信じられないといった表情を浮かべたまま、ネクタスは椅子に座った。その目の前で、ヴァルセルはコンソールを操作している。
一体、この部屋で何が明かされるのか──。
そして、自分は何を知るのか。
ネクタスの鼓動は高まった。
ヴァルセルはコンソールを操作しながら尋ねてきた。
「セヴァイツァー先生のことを、知っているか」
「あ、ああ。かつてアカデミーの教官だったが、今はヒューマノイドタウンで神父を名乗っているとか」
「神父、ってなんだか分かるか?」
ネクタスはかぶりを振った。
「いや、分からない」
すると、ヴァルセルがコンソールを操作する手を止めた。目の前のホログラムには、一冊の革づくりの本が浮かんでいる。
「──これは?」
「これはこの世で一冊しかない。セヴァイツァー神父が持っているものだ。このホログラムは、それをコピーさせてもらったものだ」
「何が書かれた本なんだ」
「『聖書』さ」
「聖書?」
驚いて腰をあげるネクタスに、コンソール越しでヴァルセルはページを繰った。
「カタストロフィー前の世界を作った、とされる神の書さ。もっとも、カタストロフィー前には様々な神が存在していた。だが、それは別々に表現されているだけで、本当はひとつの神に過ぎないのかもしれない」
「こ、これが『エデンの真実』とどう関係しているんだ?」
ネクタスの問いに、ヴァルセルは聖書を繰ったまま反応しなかった。
「セヴァイツァー先生は、ヒューマノイドタウンでこれを受け継いだんだ。その時、このエデンが『嘘と偽りで作り上げられた虚構』であると見抜いた。エデンでは、カタストロフィー前の歴史はいっさい語られていないからな。しかし、ヒューマノイドタウンでは『明確に』その記録が残っていたんだ」
「カタストロフィー前の記録を? すべてがいったん海の底に沈んで、再び隆起した土地で奇跡的に生き残ったヒューマノイドが語り継いだとでもいうのか?」
ヴァルセルが苦笑を浮かべた。
「彼らの文明を軽視するな。アーシアン程ではないにせよ、語り継ぐだけの力はある。そして、それをすべきだとする程の賢人だって存在する」
そう言われ、ネクタスは自分の言動が差別的だったことを恥じた。
「だが、聖典は『ひとつではない』。エデンにも、実は聖典があるんだ」
「何だって?」
思わずネクタスは声をあげてしまった。
「それは──エデン創設時の、ということか!」
「ああ、そうだ。だが、それは隠す必要があるとして、なかったことにされてしまった。今やその存在を知っているのは、アグティス皇帝とソレーユ──そして、俺だけだ」
驚愕の事実を告げられ、ネクタスは呆然としていた。ホログラムで浮かんでいた聖書は消え、代わりに浮かんだのは光粒子で出来た文書だった。だが、文字はアーシアンの使う言語ではなかった。
「これは──」
「エデンに降りた四人の元老院の祖。ミハエル、ガブリール、ラフィール、そして、アズライール。この者達に連れ添って降りた人物が残したものだ」
「だが、これは我々の言語ではないぞ」
「ああ、そうだ。『異星人』が残したものだからな」
ネクタスは愕然とした表情で、ヴァルセルの顔を見つめた。ヴァルセルは平然としている。
「い、異星人だって?」
「そうだ。ネクタス、お前はたった五百年の間で、これほどまでに進んだ科学文明が誕生すると本気で思ったのか? すべてが海に沈んだ惑星に、エデンのような文明を持つ都市が現れるなど、どう考えたっておかしいだろう」
「そ、それはそうだが──」
「少し考えれば、その矛盾に本来は誰もが行き着くはずだ。だが、『その矛盾に気づかないよう』わざと思考を遺伝子操作されて、我々は生まれてきている」
「何故、そんなことを?」
「当然だろう。アーシアンが『異星人』だとすれば、ヒューマノイドに地球を返すべきだと考えるヤツが当然増えるからな」
ネクタスはめまいを感じた。自分が信じて来たすべてが何だったのか、何もかもが信じられない気持ちに襲われた。
「では、アーシアンは全員『異星人』なのか?」
「正確に言えば『混血』だ。かつての地球人のね。カタストロフィーの時、救出された地球人が何十名かいたんだ。四人の始祖は、その救出された地球人と異星人との間に生まれた子供だ。そして『エデン』という名は、そのうちの地球人が聖書を熱心に読んでいたがために、そこからつけられた名前だ」
「どういう意味なんだ」
「楽園、さ」
「……楽園」
ネクタスはそのまま、その場に座り込んでしまった。ヴァルセルは聖典を読みながら言う。
「この聖典には、地球に降り立った四人の祖が、エデンを建設していく経過が書かれている。そして一部、『預言めいたもの』もね」
「預言めいたもの?」
ネクタスの問いに、ヴァルセルは聖典をスクロールした。
「500年後──ちょうど今頃だな。ヒューマノイドとアーシアンの格差をなくし、本当の自由を惑星にもたらそうとする者が現れる。だが、その試みは幾度か失敗するであろう。そして、『最期に生まれし親を持たぬ者』が、超越した能力によりすべての次元の地球を癒すだろう」
「最期に生まれし、親を持たぬ者」
「クリティカンさ」
そう言われ、ネクタスは考えた。そうだ──確かに、クリティカンは「最期に生まれし親を持たぬ者」だ。クリティカンはオリジナルしかなく、その上、そこから先に子孫は望めない。だから「最期」なのだろう、と。
「だから君は、クリティカンに拘っていたのか」
「ああ。そして、シリアのクリティカンはこの『預言されし者』になり得る可能性が十分に高い」
「どういうことだ」
ヴァルセルは今度は上に聖典をスクロールした。
「これは当時から300年後に起こるだろうと言われている預言だ。ラフィールの血を継ぐ者が、ヒューマノイドタウンで奇跡をおこない、ヒューマノイドとの格差をなくそうとするだろう。だが、その行為は多くのアーシアンから反感を買い、彼はアズライールに殺されるであろう」
「アズライール?」
ネクタスは立ち上がった。
「300年後の預言に、何故、始祖のアズライールの名前があるんだ?」
「彼は『長寿の血筋』だったんだ。ヒューマノイドの間では死神とも呼ばれた、悪名高きアーシアンさ。もともと、ミハエルとアズライールがヒューマノイド排斥派だったからな。そして、これは実際に『起こった』。それがヒューマノイドタウンでは伝記となって残っている」
ふとヴァルセルはネクタスに背を向けた。デスクから、革表紙の本を手にしてネクタスに差し出した。
「ヒューマノイドタウンで手に入れたものだ。『英雄ルーカスの生涯』。ルーカスというのが、ラフィールの血を継ぐ者だ。ラフィールは癒し手として有名だった。その血を継ぐルーカスもそうだった」
差し出された本を、ネクタスは必死に繰った。すると、端麗な顔立ちで紅く長い髪の青年が挿絵に描かれていた。その青年の背中には、大きな黒い翼があった。
「これは──どういうことだ。アズライールには翼があったのか?」
ヴァルセルは頷いた。
「四人の始祖、全員に翼があった。だが、この地球上で暮らしていくうちにそれは退化し、今の俺達にはないというわけだ。ちなみに、300年後のルーカスも、翼を持ってはいなかった」
「何故だ?」
「『地球環境が汚染されているから』さ。そして、遺伝子操作を加える際にはどうしても異分子が取り除かれてしまう。それが翼であり、かつ、異星人が持つ叡智だった、というわけさ」
「では、今の我々は『果てしなくヒューマノイドに近い』ということか?」
ヴァルセルは頷いた。
「ああ。遺伝子操作だの何だのとうつつを抜かしているうちに、我々も退化していった。見た目や運動神経、表面的な聡明さだけは残されたが、あとはヒューマノイドと大差ない。四人の元老院の祖達とは、雲泥の差だ」
「確か君は、アズライールを祖としていたな。アズライールは何歳まで生きていたんだ」
ヴァルセルはかぶりを振る。
「正確な記録はない。アズライールが出てくる伝記も『英雄ルーカスの生涯』だけだ。ルーカスを殺した後どうなったのか、誰も分からない」
「本当に、アズライールが殺したのか?」
「ああ、たぶんな」
ヴァルセルの確信ある言葉に、ネクタスは眉間を寄せた。
「何故分かる?」
「『子孫』だからさ」
そう言うと、ヴァルセルは聖典のホログラムを消した。ネクタスは思い切って核心を問うた。
「君は、皇帝アグティスと10歳の頃から一緒にいたと聞いているが──」
「ああ」
「何故、彼の元を出た?」
「『不毛』だからさ」
ヴァルセルの言葉に、ネクタスはしばらく考えていた。
「不毛?」
「『幻影』の中にいても、ただ歴史を知るだけだ。この地球における膨大な歴史をな。それだけでなく、銀河宇宙全体における歴史も。そんなことを知るのは、俺にとって何の得にもならない。俺は実際に生きている人達と関わりたいし、実際の社会で事をなしたい」
「幻影って、どういう意味だ」
掘り下げるネクタスに、ヴァルセルはしばらく言い淀んでいた。しかしやがて、重い口を開いた。
「アグティスは『実在しない』。ただの『記憶の保管庫』だ」
ヴァルセルが告げた真実を、ネクタスはすぐに受け入れることが出来なかった。
記憶の保管庫──その意味も分からなかった。
「どういう意味なんだ」
「アグティスはいわば、この宇宙における『記憶』なんだ。四人の元老院の祖達が記憶を皇帝に据えた理由は、『二度とこの星を危険な状態におかない』という目的があったようだ。しかし、結果的に統率者を欠く集団は滅びゆくしかない。その上、アグティスの謎を隠す為に行った思考操作によって、エデンの住民──アーシアンは全員『馬鹿』になった。もうエデンは楽園なんかじゃない──『滅びなければならない愚の骨頂』だ」
ネクタスは混乱する意識をどうまとめていいのか分からなかった。
それでは、今まで自分が受け入れていたエデンの歴史もすべて、偽りだったというのか。
「だが、今はソレーユがアグティスの元にいると……」
「『奴は特別』だ。あいつの正体についてはまだ語れないが……ソレーユは、すべてを『知っている状態』で生まれた。だから、あいつはアグティスのそばにいても問題ない」
「さっき、『アグティスは記憶の保管庫』といったな。それはどういうところなんだ。図書館みたいな感じなのか? それとも──」
「説明したところで、きっとお前には理解出来ない。ただ、あえて言うのであれば『この次元には存在しない』ということは、はっきりしている」
「だとしたら──君は、異次元に5年間もいた、ということか?」
質問攻めのヴァルセルは、僅かに口元をあげるとこう言った。
「お前が知りたかったアグティスのことは、これで充分わかっただろう。これ以上は、聞かない方が身のためだ」
それだけ言うと、コンソールをオフにした。