第二章 精神の牢獄
 ルーカス達がアジトについてから、2時間程が経過しようとしていた。その間、サウゼンはサリーに言付けて茶を準備させると、ルーカスとスレイドをもてなした。
 レジスタンスとは思えない程に白く統一された風情ある空間。ジョリスは精神がレジスタンスであっても、生活スタイルはアーシアンそのものであることをルーカスは実感した。本来ヒューマノイドとして暮らしてきたなら、サウゼン達にとってこの空間は異質に感じるだろうが、彼らはそのことについて何もコメントしようとしない。如何にジョリスがサウゼン達にとって大切に思われ、愛されている存在かを身に染みて感じさせた。
 洒落た陶器のティーカップに注がれた紅茶をトレイに載せて、サリーが現れた。この陶器はかつてロココ調と呼ばれたものに似ているとルーカスは漠然と思う。
「すまないね。ジョリスが紅茶派だから、珈琲がすぐに準備出来なくて」
 サウゼンの謝罪に、ルーカスは笑顔で頷いた。
「私も紅茶派なので、大丈夫です。スレイドは、大丈夫ですか?」
 スレイドが普段から珈琲を愛飲していたのを思い返して声をかけたが、ほぼ無反応だ。
「──胃の中に入れば何でも同じだ」
 不愛想に答える。スレイドらしい答えだと、ルーカスは小さく吹き出した。
 ふと、ルーカスは視線を上げた先の棚の上に、大きな電子機器があるのに気が付いた。十年以上は経っていると思えるような旧式のタイプで、カメラも内蔵されている。
「ところで、サウゼンさん」
 ティーカップに口をつけた後、サウゼンは視線をルーカスへと向けた。ルーカスは電子機器を指し示す。
「あれは何ですか?」
「あれか。あれは、『レジスタンスの記録』だ」
「記録?」
 首を傾げるルーカスの前でサウゼンは立ち上がると、そのまま電子機器の前まで移動した。置いてあったコンソールを操作するとホログラムが立ち上がり、ジョリスの顔が映し出された。画像のジョリスは、レジスタンスで起きた出来事を語っている。どうやら日誌の代わりにログとして撮っているようだった。
「これは、ヴァルセル氏がレジスタンスを立ち上げた時から、各地のアジトリーダー全員に義務づけたものなんだ。その日1日にあったアジトの動きを、ヴァルセル氏が把握するためのものだったのだろう。それをジョリスも継続させている、っていうわけさ」
「ということは……ヴァルセルさんのログもあるのですか!」
 ルーカスの言葉に、サウゼンはかぶりを振った。
「残念ながら『ない』。だが、先ほどエイジが話していたクリスのログはある。それを見れば、大体のレジスタンスの過去が分かるはずだ。後でじっくり見てみるといい」
 サウゼンがそう言ってホログラムを消した時、アジトの扉が開かれた。顔を覗かせたのはエイジだ。
「戻ったぞ」
 端的に言う。ルーカスは即座に反応して駆け寄った。
「エイジさん、おかえりなさい! ドクターとミカルさんは……」
「何だよぅ、俺様は無視かよぅ」
 エイジの背後からひょっこり顔を覗かせたジースを見て、ルーカスは「あ、すいません。わざとじゃないです」と言って頭を掻いた。
「何だ、相変わらず自己主張の強い奴だな! ルーカスが必要なのはお前じゃなく、私らだろう!」
 苦々しい言葉が続く。皮肉めいた表情でドクターが顔を覗かせた。その後ろにミカルも立っている。
「ドクター! ミカルさん! 道中、大丈夫でしたか?」
 ドクターは親指でエイジを指し示すと、汗を拭いながら答えた。
「おお。この街でエイジは有名人だったようでな。ほとんど顔パスだった。だが、私的には『もう一匹』がミカルに近づかんよう気を付ける方で、精いっぱいだったがな」
 そう言ってジースを睨む。ジースは「けっ。俺様はそこまでケダモノじゃねぇよ」と毒づいた。
「いやはや……、それにしても驚いたな。アジトというからてっきり薄暗いほったて小屋を想像していたが、中はこんな近代的で美しい建物になっているとは……」
「エデンで使用されていたホログラムです」
「そうだろうな。しかし、薄汚いところでは薄汚い発想が浮かび、美しいところでは美しく調和のとれた発想が浮かぶものなのやもしれん。ジョリスというリーダーは、きっと調和を愛する人物なのだろう」
 そう言うと、ドクターは持っていた荷物を下ろした。
「で。肝心のそのジョリスはどこにいる?」
 ドクターの言葉に、サウゼンが「こっちです」と案内をした。ドクターを先頭に、全員で寝室へと入る。
 ジョリスの寝顔は相変わらず穏やかだったが、先ほどよりもやや苦痛を示した表情をしていた。しかし、これといって脳波に異常があるわけではなかった。ドクターは「ふぅむ…」と唸る。
「初めて見る症例だ。脳波にも異常がない上、外傷もなさそうだ。なのに、何でこんなに苦痛そうな表情を浮かべているのか──」
「おそらくナノマシーンを使った精神拷問です。これを使うと、脳波的には眠っているように見えますが、実際には夢の中であらゆる苦悩を味合わされている状況なので……」
「なるほどな。その『なんとかマシーン』に関しては、お前さんに任せた方が良さそうだ」
 そう言うと、ドクターは診察鞄を開いた。
「念のため、体の状況も診察しておこう」
 そういうと、鞄から伸びたコードをジョリスにつけていった。その結果、ジョリスの身体には異常がないことが分かった。やはり、精神の拷問だけが問題として残されていた。
「まずはルーカスが手を打ち、その後、私がフォローすることにしよう。残念ながら、私ではこの精神拷問とやらに対して打つ手がない」
「分かりました」
 ルーカスは頷いた。

* * *


 その日の夜、メンバーはそれぞれ部屋を宛がわれ、そこで休息することにした。いったんルーカスも眠りについたが、どうもあれこれ考えてしまって目が覚めてしまう。ソファーで眠っているスレイドを起こさないよう留意しながら、物音を立てないよう気を配りつつ部屋を後にした。

 ルーカスは居室の片隅にある「ログ」が入った機器の前に座った。コンソールを操作すると、画像が空中に浮き出る。一番最新のデータは今日になっていたが、登録者はサウゼンだ。リーダー不在の間は、副リーダーともいえるサウゼンがログを残しているのかもしれない。
 データを遡っていくと、ジョリスが最後に入れたデータが残っていた。日付はアース暦540年の10月25日。ルーカスは思わずデータをクリックしていた。
 そこには、端麗な顔立ちのジョリスが姿を現した。本当に、こんな人物がレジスタンスのリーダーなのかと疑いたくなるぐらいに、穏やかで優しげな表情をしている。誰からも愛される理由は、彼を一目見ただけでよく分かる程だった。彼そのものが「慈愛」であると言っても、過言ではない。ホログラムの映像であるジョリスは、こう告げた。
「本日、ネクタス教官が訪れた」
 ルーカスの身体がぴくりと反応した。
「私達、レジスタンスの希望とも言える存在『サルジェ』が、もうすぐこのアジトにやってくる。彼が来れば、全てが変わるだろう。彼こそが、『預言されし者』だから」
 ──預言されし者?
 そんな言葉、ネクタスからは何も聞かされたことがない。ルーカスは怪訝に思いながらもその先を見続けた。
「我々も、サルジェを迎え入れる為に準備を整えなければならない。だが、その前にスウェルデンにあるキルデのアジトが、アンゲロイに狙われているという報告があった。私とサウゼンはそこに出向き、出来るだけスウェルデンのアジトメンバーを救出するつもりだ。万が一私がそこで命を落としたら、この後のことは──すべて『シオン』に託すつもりでいる」
 シオン。今はドラシルに向かっているが、彼は次元ポートを創り出す天才でもある。ジョリスは自分の後継者として、すでにシオンを選出していたようだ。
 その日のログは、そこで終わっていた。ずっと辿っていくと、アース暦522年にクリスのログがある。

 ──これを見たら、ヴァルセルさんの本当の意図が分かるかもしれない。

 ルーカスにしてみれば、エイジが言ったようにヴァルセルが策略家だったなどと信じたくはなかった。それに、仮にヴァルセルがそのような人物だったら、あのネクタスが親友などと言うわけがない、そうも思った。
 それに、セインという人物。ネクタスからは、ひと言も聞いていない。ネクタスに告げずに策略をするようなことを英雄と呼ばれたヴァルセルが……いや、スレイドの父親がするわけがない、そう信じたかった。
 映像を見ようと伸ばした指先が、小さく震え出した。クリスのログを見たい衝動と、まだ真実を知りたくないという思い。その葛藤の末、ルーカスは溜息をついてから電源を落とした。
 ──クリスさんのことを知るのは、ジョリスさんの意識が戻ってからでも遅くない。
 そう自分に言い訳をして。

 何となく気持ちが不安定になったルーカスは、ジョリスに一目会いたくなって寝室を訪れた。
 ホログラムで日差しが燦々と描き出されていたジョリスの居室も、今は月明かりが細々と入る画像に切り替わっている。ベッドの脇に添えられたユリの形をしたライトが、ジョリスの端麗な顔をうっすら照らしていた。
 扉を開けてルーカスが一歩入ると、ジョリスの前に人影が見えた。椅子の背をまたいで座り、腕に顎を載せた状態でみじろぎせずにジョリスを見下ろしている存在。ルーカスはしばらく躊躇っていたが、思い切って声をかけた。

「……サウゼンさん」

 サウゼンは振り向かなかった。
 彼の背中を見つめたまま、ルーカスは静かに歩み寄る。しばらく沈黙が続いた後、サウゼンが聞き取れない程の小さな声で呟いた。
「──俺のせいだ」
 ルーカスは何も言わず、ただサウゼンを見つめる。
「スウェルデンへの偵察は、ジョリスから司令を受けて俺が派遣されていた。半年前、イングランドでアンゲロイの襲撃があった数日前の展開と同じ匂いをスウェルデンで感じたから、俺はすぐにイルサットに戻ってそのことをジョリスに告げた。……だが、ジョリスを連れて行くべきではなかった。アンゲロイに襲撃されると分かっている場所に、よりによってジョリスを連れて行くなんて──」
「でも、大切な仲間が襲撃に遭うと分かっていたら、ジョリスさんは絶対に自ら出向こうとしたのではないですか? 誰が止めたとしても、それを聞き入れなかったのでは?」
 穏やかな問いかけに、サウゼンは小さく頷いた。
「ああ。だから……『最初から、言うべきではなかった』んだ」
 ルーカスは、そっとサウゼンの肩に手を載せた。
「そんなことありませんよ。それに、それはサウゼンさんが悔いるべきことではありません。ジョリスさん自らが選択したことなのですから……。ジョリスさんだって、きっとそう言うに違いありません」
「君は本当に、ジョリスによく似た物言いをするね」
 そう言って、サウゼンは初めてルーカスの顔を見上げた。サウゼンの前に立つのは、大きな翡翠色の瞳が特徴的な、年端もいかない愛らしい少年だ。15歳というが、とてもそうは思えない。10歳前後にしか見えない容姿をしているが、その目はまるで様々な経験と人生を積み重ねてきた老齢な人物のように静かな輝きを湛(たた)えていた。

 ルーカスも、サウゼンを見下ろした。
 月明かりがほんのりと照らすサウゼンの顔立ちは、彫りが深くて眉毛も濃く、猛々しいイメージがした。アーシアンではまず見たことがないような野性的な人物であるが、魅力ある容姿をしている。そして、何よりも誠実そうな人柄が、彼の全身から滲み出ていた。
「ジョリスさんとは、もう長いつきあいなのですか?」
「ああ。ジョリスがエデンを出てからだから……、もう17年以上になるか。俺は当初、クリスがリーダーをしているグループにいたんだ。さっき、エイジが話していただろう。時期尚早の闘いを仕掛けて自滅した、ヴァルセル氏の右腕とされた人物……」
 ルーカスは無言で頷いた。
「もともとこのアジトも、クリスが仕切っていたんだ。クリスはアーシアンなだけでなく、アカデミーで数学を専攻していたような聡明な青年だったが──ヴァルセルの裏切りにあって……、それで命を落としてしまった」
「その話は本当なのですか? ヴァルセルさんが多くの友人を犠牲に合わせたなんて、にわかには信じがたいのですが……」
 ヴァルセルはスレイドの父親だ。スレイドは何があっても、友人を裏切るようなタイプではない。実際に自分が熱を出した時だって、スレイドは感染症に伝染するリスクをおかしてまで、ドクターとミカルを呼びに行ってくれたのだ。それだけでなく、スレイドはいつだって──出逢った当初から、無条件でルーカスを守ってくれていた。だからこそ、余計に信じられない──そう思ったのだが……。
「残念ながら、それは真実だ。私もその犠牲に巻き込まれそうになったところを、ジョリスに救ってもらった。彼とは、そこからの縁だ」
 サウゼンはそれだけ言うと、視線を再びジョリスに戻した。
「ジョリスは時々、苦しそうに魘(うな)されていることがあるんだ。肉体はこうしてアジトに無事着いているのに、ジョリスの精神は未だ捕らわれたままなのかと思うと……どうしてあげるのが一番いいのか、まるで分からない」
 ルーカスは眉間を寄せた。本来、ナノマシーンの影響はさほど長くはない。また、ナノマシーンが効率よく動けるようにするためには、毎日ナトリウムイオンを投与する必要がある。その投与が途絶えて、かれこれ四日は経つはずだ。それにも関わらず、まだナノマシーンの影響があるというのが、ルーカスには疑問だった。
「私が思うに──本来のナノマシーンであれば、すでに自滅して髄液に吸収されていておかしくない時期なんです。ですので、とっくに意識が回復して良いはずなのですが……」
 その言葉に、サウゼンは怪訝そうな表情をした。
「さっきも言っていたが、その『ナノマシーン』って何なんだ?」
「脳神経内を移動出来る小さな機械です。ただ、ナノマシーンの管理は難しく、遠隔で操作出来るようなものではありませんし、ナノマシーンを活性化させるにはナトリウムイオンの投与が不可欠なのです。すなわち、ここにいる以上、ジョリスさんはエデンからナノマシーンで拷問を受ける危険はまずないはずなのです。だから……今もまだ魘(うな)されているのは、まだ脳内に微量のナノマシーンが残っていることが原因に過ぎないのではないか、と」
「取り外すことは可能なのか?」
 思わず椅子から立ち上がったサウゼンに向かい、ルーカスは頷いた。
「可能です。そのために、ちょっとジョリスさんの頭部に電気ショックを与えることになりますが……勿論、人間にとっては害のない程度の軽度なショックです。しかし、ナノマシーンは衝撃に弱いので、すぐに破壊されます。破壊された後は取り除くことが不可能なのですが、すべて脳内の髄液に吸収される素質で出来ていますので心配はありません」
「すぐに取りかかれるのか?」
 食い下がるサウゼンに、ルーカスは頷いた。
「今つけられている電極に、そのまま電流を走らせれば可能です。──ただ、リスクが完全にゼロというわけではないので、皆さんにお話して了解を得てからの方がいいとは思います」
 サウゼンは頷いた。
「分かった。明日の早朝すぐに仲間を全員呼び出し、事情を話すことにしよう」
 サウゼンの言葉に、ルーカスも頷いた。

* * *


 翌日の朝は、爽やかな晴天だった。エイジとキッドが町民の中でも重要な立場にいるレジスタンスに声をかけ、白く統一されたアジトの中には三十名ほどの人物が集まっていた。だが彼らの表情は緊迫しており、ルーカスから受けた説明を楽観視しているとは思えない様子だった。
「……ルーカスさん、って言ったっけ?」
 椅子に座って足を高く組んだ色黒のヒューマノイドが、ルーカスに向かって言った。
「あんたの言うこと、俺ぁ難しすぎて半分も理解出来てねぇんだけどよ。要するに『ジョリスが助かる見込みがある』っていうンなら、俺はあんたのやることに反対する気はねぇぜ」
「何言ってンだい! 頭に電気流して、無事でいられる人間がいるもんか!」
 そう叫んだのはカフェテラスの女店主だ。彼女も重要人物の一人だったようだ。
「電気と言っても、微量のものです。それに、精神疾患にかかった患者に電気ショックを与えるという治療はかつてから行われているものですので、決して命に別状はありません」
「そもそも、あんたぁまだ子供のくせに何でそんなことが分かるンだよ」
 中央で腕組みをして立つ体格のいいヒューマノイドが声をあげた。子供……。確かにヒューマノイドであれば、ルーカスはただの子供にしか見えまい。
「私はこう見えても、アカデミーで遺伝子工学について教授をしていた経歴があります。それに何より、私は自分自身にナノマシーンを使った経験がありますので……」
「へぇー! そんなもん、自分に使う酔狂な奴がいるンだねぇ」
 女店主が素っ頓狂な声をあげた。「ええ、そうです。目の前に」とルーカスは苦笑して言った。
「ただ、ひとつだけお断りしておきたいのは、エデンの尋問係が使うナノマシーンの仕組みが若干私が使ったものと違う可能性があるかもしれない、ということです。それでも、ジョリスさんの身体に問題はありません。やや電気ショックが強くなる危険はありますが、身体に影響が出た時のことを考え、ドクターにも待機してもらっています」
 そう言って、ルーカスはドクターを指し示した。ドクターは手を後ろに組んだまま、不安そうな面持ちのメンバーに向き直る。
「私はアカデミーの医学部を卒業した後、医療器具もほとんどないようなところからヒューマノイドの治療を施してきた経験もある。この私がついていて、なおかつ、天才少年と謳われるルーカスがいるんだ。何の心配もない。その後のケアについては、ここにいる看護師のミカルがすべてしてくれるしの」
 そう言うと、ミカルは小さく会釈をした。黙ってことの経緯を見ていたエイジが、何故かミカルが会釈をした時だけ頬を赤らめて視線を逸らしてしまった。
「皆さん、ご了承頂けたでしょうか?」
 ルーカスの呼びかけに、しばらくの間誰も反応しなかった。互いに視線を交錯させ、どう反応していいのかを迷っているかのようだ。と、その時。
「俺はいいぜ。お前に任せる」
 最初にそう言ったのは、意外にもエイジだった。エイジが言ったことを皮切りに、その場にいた全員も頷いた。
「分かりました、ありがとうございます。それでは今から、治療に入ります」
 そう言うとルーカスはドクターに目を向け、合図をするように頷いた。

* * *


 ルーカスはジョリスの頭部についている電気コードで、微量な電気を流し続けた。しかし、大きな反応は起こらない。ジョリスの意識が戻ることもなかった。
 だが、ひとつだけ変化が生じた。それは、ジョリスが苦悶の表情を浮かべることがなくなったということである。これは、ナノマシーンが破壊されていることを意味しているように思えた。
「ナノマシーンが完全になくなったという反応は、どこで分かるんだ?」
 ドクターの問いに、ルーカスはジョリスから目を離さない状態のまま答えた。
「意識が戻ります。そこで、確実になくなったことを認識できるのです」
 だが、脳波の変化は未だ見られない。根気強く勝負するしかない──そう思った、その時。扉をノックする音が聞こえた。入って来たのはサウゼンだった。
「どうだ、様子は」
「まだ変化はないですね」
「そうか……」
 そう言うと、ジョリスを心配そうに見つめた。それからそばに座るルーカスとドクターへと視線を向ける。
「もうすぐ昼になる。サリーが買い物に出て不在だからサンドウィッチぐらいしか作れないが、それでもいいか?」
 ルーカスは笑顔で頷いた。
「私は何でもいいです」
「私もだ。もし何なら、ミカルに頼んで作ってもらうといい」
「しかし、看護師にそんなことをさせると悪いのでは──」
「なぁに! あの子は『他人の役に立つこと』なら、喜んで何でもするような子だ。おそらくあんたが不器用にパンを切ってる姿を見たら、自分から手伝うって言ってくれるはずさ」
 ドクターはミカルを心底信頼している──そんな姿が垣間見れて、ルーカスは何だか微笑ましく思えた。まるで実の娘以上に、大切にしていることが伝わってくる。
「分かりました。では、ちょっと声をかけてきます」
 サウゼンがそう言うと、ドクターも腰をあげた。
「ルーカス。私も少し、外の空気を吸ってきてもいいか? 私がいない間に、あの変態がミカルに『ちょっかい』出しているやもしれんしの」
 変態──いわずとしれたジースのことである。
 ルーカスは笑って頷いた。
「勿論いいですよ」

 サウゼンとドクターが部屋を出た後、ルーカスはジョリスの脳内にいるナノマシーンの状況を把握しようと努めた。
 思ったよりも、ナノマシーンはジョリスの脳内に大量な程までは入っていなかった。ここから類推するに、エデンは最初からジョリスの命を奪ってまで情報を抜き出すつもりはなかったのではないか──そんなふうに思えてしまう。もしも完全に情報を抜き出そうとするのなら、絶対にもっと大量のナノマシーンが投入されており、救出される段階でジョリスの人格が崩壊していたはずだからである。

 もしかして──考えたくはないが、「ジョリスの逃亡」を、エデンでは予測していたのではないだろうか? そのため、泳がせておきながら情報を得る為、「ナノマシーン」を搭載したのでは?

 ナノマシーンにも色々な種類があり、当人の人格崩壊を覚悟の上、すべての情報を引き出そうとするもの、それ以外には、まるでお遊びとも言いたげな──あくまでも当事者の精神的ダメージや屈辱や陵辱を目的にする場合もある。
 ルーカスの見立てでは、ジョリスの場合も重要な記憶を探り出す為に必要な神経叢を中心に改良されたようなナノマシーンではないようだった。いわば……まるで、対象の人物の中にあるトラウマや傷、或いは、その本人が最も嫌がっていることや憎悪していることに対してわざとアプローチや刺激をかけていくような構造で出来ており、このナノマシーンが情報探索の為ではなく「拷問用として」ひいては「ジョリスに陵辱を受けさせて楽しむため」を目的に作成されていることが見え透いて分かり、ルーカスは嫌気がさしたどころか、嘔気までした程だ。

 だが、エデンとは「そういうところ」なのだ。
 娯楽も何もない空間。エデンを管理する特殊警察部隊やアンゲロイ達の楽しみといえば、捉えられた優秀なレジスタンスの過去や知られて欲しくない想い出を掘り返し、彼らの恥や屈辱を味わって見下すことが一種の趣味とされているほどだ。そうした人間とは思えない残虐な行為により、一体、何人の優秀なアカデミー研究者が自殺や精神崩壊に追い込まれたことか……。

 ──でもただ一人、あらゆる肉体的、かつ精神的な拷問に耐え抜いた人物がいた。
 それが「ヴァルセル」だった。

 ヴァルセルの立ち位置が、今のルーカスにはよく分からなくなってしまっていた。様々な苦痛をクリアしつつ、かつ、何ひとつレジスタンスの情報を吐露しなかった男。
 ヴァルセルが元老院の一人であることから、処刑は見送るべきだという意見が多数出ていたとネクタスから聞いたことがある。特にネクタスの叔父であるヒューランド宰相は、ヴァルセルの処刑を心底反対していたのだ。
 エデンの元老院に派閥があることは、ルーカスもよく知っている。最初はたった四人から始まったエデンの創設も、その子孫が生まれるに従って価値観や考え方が分離していったのだ。特にヒューマノイドがエデンに辿り着いてからは、ヒューマノイドを受け入れようとするラフィール派、ガブリール派に対し、排斥しようとするミハエル派とアズライール派。──そう。最初、ヴァルセルの始祖であるアズライールは、ヒューマノイドの排斥派だったのだ。それが500年後にはヒューマノイドを庇うレジスタンスの創設をしたというのだから、皮肉なものである。
 ジョリスの始祖は誰か分からないが、顔立ちからしてガブリール派ではないかとルーカスは思った。ガブリール派の血筋の者は、髪がウェーブしていることが多い。ジョリスも同じように銀髪に近い程の美しい金色の髪は緩やかに波打っている。

 ──正直言って、ジョリスさんのナノマシーンの投入のされ方は、あまり致命的とは言えない。少し強い電流を流せば容易に壊れるだろうし、壊れた後も、脳幹といった生命存続を司る部位にリスクを与えるわけでもない。イチかバチか、電流を強めてみようか。

 ルーカスはそう考えた。そっと周囲を見回し、誰もいないことを確認する。
 ナノマシーンの破壊は、決して困難なことではない。微量の電流を強くすれば、おそらくは短時間で解決するだろう。しかし、これ以上電流をあげれば本人が苦しむ結果となるので、事情を知らない人間からすればルーカスがジョリスを苦しめているように見えてしまうリスクは充分にあった。

 ──どうか、エイジさんが来ませんように!

 そう願い、ルーカスはレバーを上げた。今まで穏やかに眠っていたジョリスの全身に、電流が走った。ジョリスはのけぞるように体を動かした。
「すみません! あと、2、3回我慢してください。それでナノマシーンは確実に故障しますので!」
 そう言うと、ルーカスはさらにレバーを上げて電流を強める。それにはさすがのジョリスも体をのけぞらせ、絶叫した。

 その声には、サウゼンだけでなくドクター、そしてエイジとスレイドも反応した。
 ほぼ同時に部屋に飛び込んできた四人だったが、その中でもエイジはすぐさまルーカスに駆け寄った。
「何してんだ!」
「今、ジョリスさんの内部にあるナノマシーンを故障させようと、電流を流しているところです」
「大丈夫なのか? こんな苦しそうなのに!」
「大丈夫です! ジョリスさんの神経そのものに、影響はありません!」
「どのぐらいかかるんだ」
 サウゼンの冷静な問いに、ルーカスは小さく首を振った。
「そんなにはかかりません。あと3分程です」
「その間に、ジョリスの脳に致命的な傷が出来たりしないのか?」
 矢継ぎ早のエイジの問いには、サウゼンが答えた。
「大丈夫だ。ルーカスに任せろ。彼ならきっと、ジョリスを助けてくれる」
 そう言いながら、ジョリスはエイジの両腕を抑えていた。エイジがルーカスを咄嗟に襲わないよう、防御しているようだった。そんな様子を、スレイドは腕組みしながら横目でじっと見つめていた。まるで監視しているかのように。

「もうすぐで2分たちます。ラスト1回……、行きます」

 覚悟したように言うと、ルーカスはレバーを上げた。
「ぐわぁ────っ!」
 ジョリスの絶叫が響いた後、ふっと今度は糸が切れたように意識を失った。それを見たエイジはサウゼンの腕を振り払うと、すぐにジョリスの元に駆け寄った。恐る恐る指先を伸ばし、額にかかる前髪を寄せた。長い睫は固く瞳を閉ざしたままだが、静かに呼吸しているのが分かった。
「終わったのか?」
 振り向くことなく、エイジが問うた。
 初めての体験に、ルーカスの体は小さく震えていた。大きく肩呼吸をしながら答える。
「──はい。終わりました」
「もう、苦しまなくていいんだな?」
 そう言いながら振り返ったエイジの表情は、心の底からジョリスを案じているのが伝わってきた。ルーカスは再度頷いた。
「ナノマシーンは、これですべて消えたはずです。それは疑いようがありませんので、もう悪夢に魘(うな)されることもありません。そして近々、ジョリスさんの意識も戻るでしょう」
 そのルーカスの言葉には、その場にいた全員が安堵の声をあげた。

* * *


 数週間に渡ってナノマシーンによる精神の牢獄にいたジョリスの意識が戻ったのは、その日の太陽が沈んで宵も更けた頃だった。
 ジョリスの回復に安心したメンバーは、今日はそれぞれの部屋で安らかな眠りについていることだろう。だが、ただ一人サウゼンだけは、昨日と変わらずにジョリスの前で椅子の背をまたいだ状態でずっとそばにいた。
「……ん」
 小さくジョリスが唸った。うたた寝をしていたサウゼンだったが、ほんの僅かな声にさえ反応して飛び起きた。ジョリスの様子を見ようと、体を乗り出す。
 ジョリスは僅かに眉を動かし、手を宙に浮かした。小さく深呼吸をした後、ゆっくりと瞼を開ける。エメラルドグリーンに僅か蒼が混ざったような湖水色の瞳が、長い睫の間から姿を現した。何度か瞬きをした後、視線をサウゼンに合わせる。
「……サウゼン……か?」
 サウゼンは何度も頷いた。
「ああ、そうだ! 俺だ。気分はどうだ?」
「正直……何が何だか分からないんだ。すごく長い夢を見ていた気がするし、ほんの短い間だった気もするし……」
「その『どちらも』かも、しれないな」
 サウゼンはそう言って笑い、ジョリスの前髪を指先で梳いた。
「今はどんな感じだ?」
「今か? 今は、そう悪くない……」
 天井を真っ直ぐ見据えたまま、ジョリスが言った。
「キルデは……どうした?」
 その問いに、サウゼンは視線を落とした。
「死んだ」
「──そうか」
 ジョリスの返答は、意外なほどあっさりしていた。まるでそう分かっていたかのように。
「あそこで助かったのは、私達だけだったんだね」

 ジョリスの問いに、サウゼンは言葉を詰まらせた。
 スウェルデンからの脱出──その中に、ジョリスの名前は「ない」。何故なら、彼はエデンに捕らえられてしまったから……。
 だが、ジョリスにはどうやら、その記憶が残っていないらしかった。
「──ジョリス」
 サウゼンが覚悟するように聞いた。
「君は……あの後のこと、まったく記憶がないのかい?」
「ああ。まるで覚えていないんだ。ところどころ、あどけない顔をした少年が私を見つめていたのは覚えているのだが…」
「ああ、それは『ルーカス』のことだね。だが、それ以前の記憶というのは──」
 サウゼンの問いに、ジョリスは宙を見つめしばらく考え込んだ。だが、静かにかぶりを振る。
「何故だろう……。まったく覚えていない」
 サウゼンが奇妙そうに顔を歪めている背後から、澄んだ声が聞こえた。

「ナノマシーンを破壊した為、ナノマシーンが組み立てた神経回路がすべて消えたのでしょう。それで、必要のない記憶が全て消去されているのだと思われます」
 
 入ってきたのはルーカスだった。ジョリスはルーカスをしっかり見ようと、上半身を起こす。
「ルーカス? ……いや、本当の名前は『サルジェ』だね。君が、私を助けてくれたのか」
 ルーカスは小さく頷いた。
「ナノマシーンによる拷問が思いの他深刻ではなかったので、これだけ軽く済みました」
「拷問? どういうことだ?」
 ジョリスがサウゼンを見上げた。サウゼンはしばらく顔を伏せていたが、こう告げた。
「ジョリス。君は、スウェルデンでアンゲロイに捕まったんだ」
「何だって?」
 ジョリスはにわかには信じられないといった表情でサウゼンを見ていたが、しばらくしてルーカスに視線を向けた。ルーカスはサウゼンが言った言葉が事実であると証明するように、小さく頷いた。
 ジョリスは全く信じられないといった様子で茫然自失としていたが、ややもしてサウゼンにこう問うた。
「スウェルデンで、一体何があったんだ?」
「スウェルデンのアジトは、俺達が行った時にはすでに壊滅状態だった。アンゲロイの数は、思ったよりも多すぎた」

 サウゼンの脳裏に、その時の場面が過ぎった。ほとんどの施設が爆破され、あちこちに倒れる遺体の山。燃え続ける機器や小型艇。機器の燃える異臭と遺体の死臭が辺り一面に広がっている。それはもう地獄図そのものだった。
 二人の飛空艇が近づいた時、キルデはすぐにこう叫んだ。
「ジョリス、来るな! 引き返せ! ここはもう無理だ!」
 その時、キルデに近づこうとしたアンゲロイをジョリスは銃で撃ち抜いた。
「何を言うんだ! 君を見捨てられるわけがないだろう!」
「僕のことなど気にするな! スウェルデンを見捨て、他のレジスタンスアジトを守れ!」
 キルデの叫びはもっともだと、サウゼンは思った。ジョリスの腕を固く握る。
「キルデの言うとおりだ。ここはもう駄目だ」
「駄目とは、どういうことだ!」
 真剣な目でジョリスが問う。その眼は、「最期まで諦めたくない」そんな意思を感じさせた。
 だが、サウゼンはかぶりを振る。

「もうここは──俺たちでは『守れない』」

 ジョリスはなかなか決意が出来なかった。
 キルデ。彼はジョリスのアカデミー時代からの親友だった。彼を見捨てることなど、到底出来ない。キルデも、ジョリスのそうした性分に気づいていた。だから、「自分が生きていたら、最後までジョリスは自分を守ろうとするだろう」そう思った。
 だからこそ──彼は覚悟を決めた。

「サウゼン! ジョリスを頼んだ!」

 そう叫ぶと、キルデは両手に自爆装置を持ち、そのまま駆け寄ってくるアンゲロイ達に向かって走っていった。
「キルデ!」
 ジョリスが叫んだと同時。
 無数に銃撃を受けたキルデの体は、自爆装置と共に大爆発を引き起こした。レジスタンスが使うA-49爆弾は、半径500メートルを完全に焼失させる力があった。爆風に煽られてジョリスとサウゼンも転倒する。体を起こした時には──キルデのいた場所も、アンゲロイ達もすべて焼け野原と化していた。
「行くぞ、ジョリス」
 そう言って、サウゼンがジョリスの腕を引いた──その時だった。

 それは一瞬の出来事だった。
 一瞬で、ジョリスの目の前にアンゲロイが現れたのだ。

 アンゲロイ。エデンにおける特殊の傭兵達。美しい容姿とは裏腹に、残虐で冷酷で、優しさどころか情の欠片もない存在だ。彼らにとってはエデンの命令だけが「絶対」で、あとはただの事象でしかない。
 アンゲロイはクローンのため、みな体格が同じだ。しかし、何故かそのアンゲロイだけは大柄な体格をしていた。アンゲロイはジョリスの目の前に立った瞬間、まるで羽根をひらりと動かすようにしてジョリスを殴り倒した。
 ジョリスの体はまるで一枚の葉のように軽々と空を舞い、地面に叩きつけられる。その場でジョリスは意識を失った。
「ジョリス!」
 サウゼンが駆け寄ろうとした、その時。

「クズはいらん。ジョリスだけ、連れてこい」

 上空で声がした。
 見上げるとそこには飛空艇が浮かんでおり、神経質そうな顔立ちのスーツ姿をした男がハッチから姿を覗かせていた。アンゲロイを指揮するグローレンの部下、レイゾン・グランチェスタと呼ばれる人物であると、サウゼンはすぐに思い出した。
 大柄なアンゲロイは、無言でジョリスのそばに立った。そのまま彼を抱え上げる。
「行かせるものか!」
 サウゼンはすぐに銃を取り出し発砲したが、その銃弾が届く前に、大柄なアンゲロイはジョリス共々姿を消した。天空を見上げると、レイゾンの隣にジョリスを抱えたままアンゲロイが立っている。

 ──瞬間移動が出来るのか!

 そんなアンゲロイは、今まで初めてだった。サウゼンはただその場に立ちつくし、遠ざかる飛空艇を見つめることしか出来なかった。

「それが──真実だ」
 サウゼンの言葉を聞き終えた後、ジョリスは沈痛そうな面持ちで目を伏せていた。
「すまない……。そんなことがあったことを、私は全く覚えていなかったなんて──」
 ジョリスの悔いに、ルーカスはかぶりを振った。
「意識を失っていたのですから、当然のことです。おそらく奴らは、ジョリスさんが意識を失っている間に、ナノマシーンを使ったのでしょう。ですので、ナノマシーンがすべて消滅した今は、記憶がなくて当然なのです」
「一体君達はどうやって、この私を救出したんだ?」
「それにはシオンが大活躍してくれた。彼がアカデミー研究員の特権を使って、君の居場所とそこに移動ポートが出来るよう手を廻してくれたんだ。……だが、そのためにシオンがレジスタンスであることが判明してしまった。彼はアカデミーを追放処分とされた上に指名手配となったので、今後アカデミーの潜入は不可能となった。これからは、まだアカデミーに残る彼の仲間を頼りに活動をしていかなければならない」
「シオンさんの友人であるリゲルさんも、今はドラシルでゼノン博士と一緒に次元間を移動出来る船の製造に携わっています」
「そうか。その話は、ネクタス教官からも聞いていた。もうすでに、着手しているのだね?」
「はい。ほとんど完成に近い、と博士は言っていました」

 その後、しばらくジョリスは黙り込んでしまった。しばらくしてから、苦笑して言う。
「嫌なものだな、記憶がないというのは……。しかも、拷問された記憶が残っていないというのは、決していいとは言えない。私が何か重要なことを話したリスクだってあるわけだし──」
「そうですね。でも、仮にジョリスさんが何かを白状してしまっていたとしたら、すでに他のアジトが攻撃されていてもおかしくないですよ。ジョリスさんを救出して4日以上経つのに未だ攻撃がされていないということは……、ジョリスさんは何も白状していないのではないですか?」
「だとしたら──彼らは何故、私にナノマシーンを使ったんだ?」

 それは確かに疑問だった。
 ジョリスの救出にかかった時間は、捕らえられてから1週間ほどだった。でも、今のレジスタンスでエデンにとって唯一手強い存在と言えばジョリスだけだ。そのジョリスをみすみす失うようなことをするだろうか?
 否。
 もしかしたら、「ジョリス以外は大したことがない」そう思っている過信が、ジョリスから情報を奪おうという危機感を欠けさせたのではないだろうか。

 そう。
 おそらくエデンはもう「レジスタンスを壊滅する自信」があるのだ。
 いわば、レジスタンスはすでに「追い詰められた袋のネズミ」で、エデンは容易にねじ伏せる自信があるのだろう。思えばエデンには重要人物のネクタスが捕らえられているのだから──。
 そうなると、ジョリスへの精神的拷問は、なかば「お遊び」でされていたに過ぎないのかもしれない。
 そう言えば、かつて聞いたことがある噂をルーカスは思い出していた。
 レイゾン・グランチェスタ。有能な人物だが、冷徹で思いやりもなく、その上、性的な錯誤者でもあると聞く。彼が拷問死させたレジスタンスの青年は数多く、その中でもあまりに残酷で人とも思えない程のやり方に、元老院が尋問係からレイゾンを失脚させようとしたことがあるともいう。

 そんな人物が、ジョリスにどのような精神的苦痛を与えたのか。
 考えるだけでおぞましい──。

「私が思うに……」
 ルーカスは小さく呟いた。
「私が思うに、エデンは今、レジスタンスの存在を軽視しています。彼らが本気で手強いと思っているのはネクタス先生と、そして、ジョリスさん──このお二人なのでしょう。だから、二人を捕らえている以上怖れる敵はいないため、さほど大した拷問をしなかった……、そういうことなのではないでしょうか?」
 ルーカスはそう言ったが──そこに真実がないことを、ルーカスも実感していた。
 おそらく、あのレイゾンのことだ。とてつもなく残酷なことを、ジョリスにしたはずである。しかし、ジョリスは幸いにもナノマシーンの消滅により、その記憶を失った。不要な記憶であれば、思い出さない方がいい──ルーカスはそう思ったのだ。

* * *


 しばらく話し込んだ後、ルーカスとサウゼンは自室に戻った。
 ジョリスはひとりベッドに横たわり、今回のことを思いめぐらせた。
 ──私が捕まって軽い拷問で済むなんて、そんなこと本当にあるだろうか?
 そう疑問に思った──その時である。

 急激に、激しい口渇が襲った。
 とてつもない喉の渇き。全身から水分が急激に搾り取られたかのような苦痛を感じ、ジョリスは慌てて立ち上がった。

 その瞬間、激しい目眩を感じた。

 すると、どうしたことか。
 今までいたはずの部屋が、どことも知らない洞窟に変化しているではないか。

 ──ここはどこだ?

 そう思うも、口渇の苦痛の方が激しい。幻の洞窟と、現実の居室が混ざり合う中、ジョリスはやっとの思いで水差しに近づき、グラスに入れることもなくゴクゴクと飲み干した。
 だが、すぐに吐き出す。
 そこにあった水は、サリーが冷やして準備してくれた正真正銘の水だ。しかし、ジョリスにとっては「泥水」の味がしたのである。
 ジョリスはその場で嘔吐した。何も食べていない彼が吐けるものと言えば水しかないが、彼の目の前には大量の血が流れているように見えた。

「嘘だ……。こんな──」

 その時。
 目の前に、冷徹な男の顔が浮かんだ。
 レイゾンだ。
 レイゾンはほくそ笑み、見下した表情でこう言った。

「貴様は獣以下だ、ジョリス。
 豚のように泥水の中でのたれ死ぬがいい。
 今から貴様は、私の『家畜』だ。豚のように地を這い、私に痛めつけられるのだ」

 そう言って服を引き裂くレイゾンの目を、ジョリスははっきり思い出した。ジョリスは恐怖でその場に蹲り、体を震わせた。
「誰か……、助けてくれ。誰か──」
 そう繰り返す声はあまりに小さすぎて、誰にも届くことはなかった。
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