第1章 運命の出逢い
 砂漠の夜は凍える程の寒さだが、太陽が姿を現した途端に状況は一変する。大気が薄くなった現在の地球にとっては紫外線が人体にとって有害なため、ヒューマノイドタウンに生きる人々は夜明け前に労働を済ませ、日昼は屋内で過ごすというペースが日常となっていた。
 スレイドが外に出た時も、夜明け前の時間帯だった。地平線の際(きわ)にうっすらと赤みがさし、明けの明星である金星が瞬き、紺碧の空がオレンジ色へと変わろうとしているこの光景を、幾度となく眺めてきた。誰かが言っていた「夜明け前の闇が一番暗い」と。だが、この街では夜が明けてからの方が過ごしにくいのだ。出来るものなら、永遠に夜が明けないままであって欲しいとさえ思えるほどに。
 近くの水汲み場で今日1日必要となる水を汲み上げ、ホテルへと運ぶ。何度も往復しないで済むよう作った桶はとても大きく、水を桶いっぱい入れれば軽く10kgはある。到底女や子供が運べる代物ではない。だから、女店主であるルシカの代わりにスレイドがこの作業を行うのだ。しかし、スレイドといえどもあまり軽々しく出来る労働でないことに代わりはなかった。
 最後の水を汲み終え、ホテルに戻ろうとした──その時。
 建物の陰で人が倒れていることに気がついた。行き倒れの死体を見かけることなど、この街では日常茶飯事だ。だから、その人物が小柄な少年であることに気づかなければ、スレイドはそのまま平然とホテルに戻っていたことだろう。だが、さすがに倒れている人物が子供とあっては、そのまま見過ごすことなどできなかった。

 スレイドは少年の生存を確認するため、ゆっくり近づいていった。近づくにつれ、今目にしている光景が日常茶飯事ここで見る光景とは一風違っていることに気がついた。何故なら、そこにいた少年が白銀の月を思わせるような髪をしていたからだ。こんな色の髪をする人間など、ヒューマノイドには皆無である。僅かに周囲を照らす星明かりの中でも、少年の金髪は輝いて見えた。透き通るような肌と華奢な体つきは、明らかにヒューマノイドではなかった。右腕に傷を負っているのか、鮮血が滲み出ている。
「アーシアン……? こいつ、アーシアンなのか」
 アーシアンが、一体何故こんなところに? そんな疑問が浮かんだ瞬間。スレイドの脳裏には、先日ホテルに訪れたアーシアンの男の姿が過ぎっていた。

 その男はマントを深く被り、無言でホテルの扉を開けた。最初は通りすがりの客かと思ったが、そうではなかった。スレイドが振り返った瞬間、彼はいきなり「その髪の色はどうしたのか」と尋ねてきたからだ。髪の色を聞かれたことなんて、初めてだった。「変わった色だ」と言われたことは何度もあるが、あの男の言い方は「そんな髪の色になるはずがないのに、『何故、そうなったのか』」と問いかけているかのようだった。
 ──生まれつきだ。
 そう答えた自分に、「そんなはずはない」とまで断言した。そして、そう答えたその男こそが、「金髪しか存在しない人種」アーシアンだったのだ。
 アーシアン。
 今まで全く接触がなかったわけではない。自分を育ててくれた父代わりの存在も、アーシアンだった。かつてはアカデミーで教鞭を振るっていた教官が、ヒューマノイドタウンに亡命して教会を建て、自ら「神父」と名乗っていた。
 だが、神父以外にアーシアンとの接触はゼロと言いきれる。
 ──神父を殺した犯人を除いて。
 
 ヒューマノイドにとってアーシアンは、いわば「幻の存在」に近い。エデンはヒューマノイドが決して近づけない場所、よもや入ることさえ赦されない「聖域」だ。その聖域に生きる人間など、厳しい環境で生きるヒューマノイドにとって「自分達の環境に興味さえ抱かない、ただの強欲で快楽主義な存在」としか思えなかった。スレイドにとっても、アーシアンはそんな存在だ。だが、そんなアーシアンがいきなり目の前に現れ、そして、こう叫んだのだ。
 <せめて、『彼』のことを助けてあげてくれ!>
 あの男が言っていた「彼」という存在。それは、今目の前にいる少年のことなのだろうか? そう言えば、その少年の名前をあの男は言っていた。だが、何て言っていたのか──今となっては覚えていない。
 スレイドは少年の隣でしゃがみこみ、肩を揺すってみた。
「……おい」
 低く放たれた言葉に、少年は反応しなかった。
「おい、大丈夫か」
 さらに強く揺さぶる。それでも意識が戻る気配はなかった。スレイドは俯せたままの少年の顔をみようと、顎を掴んで持ち上げてみる。
「……ん」
 僅かに声を漏らした。どうやら生きているようだ。しかしこのまま放置すれば、砂漠の有害な太陽光を全身に浴びて、確実に死ぬだろう。
 ──さて、どうするか。
 しばし考え込む。それと同時に、目の前の少年の容姿をまじまじと見つめた。スレイドにとってこの少年は、人生の中で接触する三人目のアーシアンだ。先日の男は中年で、神父はすでに高齢だった。そう考えると、若いアーシアンはこの少年が初めてと言えるだろう。
 ──こいつ、本当に男なのだろうか。女みたいに長い睫をしているが。
 短い髪と焦げ茶色のスラックスから少年と決めつけてしまったが、実は男装した少女かもしれない、そうも思った。スレイドはしばらく考え込んでいたが、そのまま少年を抱き上げるとルシカの待つホテルへと戻った。

* * *

 スレイドが扉を開けたと同時、起きたばかりのルシカが階段を降りてきていた。
「あら、帰ったの?」
 ふと、ルシカはスレイドが誰かを抱きかかえていることに気がついた。怪訝そうに近づいてから覗き込んだ瞬間、愕然と目を見開く。
「こ、この子! 『アーシアン』じゃない!」
「そうみたいだな」
「血が出ているわ。怪我しているの?」
 スレイドは血が滴り落ちる右腕に目を落とした。この少年が結んだのだろうか、止血のためか布が宛ててある。だが、大量の出血には効果がなかったようだ。
「俺が手当てをする。部屋に連れて行くが、いいか?」
「勿論よ。二階の奥を使って。あそこ、一番いい部屋だから」
「分かった。傷を縫うから、湯の準備を頼む」
「いいわ」
 そう言うとルシカは厨房へと戻っていった。鍋を流しにおくと、そのまま水を注いで火にかける。ふと気になったのか、階段の方へと視線を向けた。 
 ──スレイドがあんなふうに身元不明の子をここに連れ込むなんて、初めてね。
 その事実に驚きつつも、ルシカは手当の為の準備をしていった。

 二階に着き、スレイドはルシカが指示した部屋に入った。この部屋が最も良い部屋とルシカは言っていたが、他の部屋よりも若干広さがありベッドが二つあるというぐらいしか違いはなかった。少年をベッドに寝かせると、傷の手当てをする為に服に手をかける。少年が着ている服はサラサラとした手触りの、光沢ある生地だった。こんな高価な服、ヒューマノイドタウンでは絶対手に入らない。普段着のようだが、少年が着るにしては地味なデザインだ。アーシアンとはこういう野暮ったい好みなのかと、そんなふうにも思った。
 服を脱がせ、少年の細い腕を掴む。目を細めながら傷を眺めていた時、ルシカが入ってきた。
「どう?」
「銃でやられた傷だな。おそらくはレーザーだろう。弾は残ってなさそうだ」 
「傷を縫うだけで済みそう?」
「ああ。傷口は綺麗だから、化膿さえしなければ治りは早いはずだ」
 そう言いながら、スレイドはルシカが持ってきた湯で手を洗う。
「これも使ったら?」
 そう言ってルシカはウォッカを差し出した。アルコール度数96度のヒューマノイド御用達の酒だ。
「こいつに飲ませるのか?」
「バーカ! 消毒代わりよ」
 スレイドは分かっていたとでも言いたげに鼻で笑いながら、いったん自分がウォッカを口に含むと、そのまま傷口に吹きかけた。
「つっ……!」
 少年が呻いて顔を大きく歪ませた。痛みは感じているようだ。
「悪いがここはエデンじゃないから、気の利いた麻酔もなければ瞬時に傷を再生する機械なんてものもない。お前らからすれば荒々しい縫合の仕方だろうから、覚悟しろよ。今度はもっと痛いぞ」
 言い聞かせるように呟いた後、迷うことなく皮膚に針を刺した。
 少年の絶叫が辺りに響き渡った。同時に、痛みから逃れようと暴れ出す。
「こいつを抑えてくれ!」
 ルシカはすぐに少年の両腕を抑えた。だが、そんな抑制などはねのけるぐらいに少年は藻掻き続けた。
「ごめんね! 痛い思いさせちゃって悪いけど、ちょっとだけ我慢してちょうだい。すぐ済ませるからね!」
 ルシカは少年の脇で宥め続けた。激痛はまだ続いているはずだが、何故か急に少年が大人しくなってしまった。
「──どうしたのかしら?」
 答えを求めるかのように、ルシカはスレイドに視線を向けた。スレイドは視線を合わせることなく傷を縫っている。
「痛みで気を失ったんだろ。見かけどおり柔(やわ)なヤツだ」
 そう言うと、額に浮かんだ汗を拭った。
「だが、こっちには都合がいい。しばらくそのまま、大人しくしていてくれ」
 そう言って、再び縫合を続けた。 

 傷口をすべて縫い終わる頃には、太陽もすっかり地平線から上がっていた。窓から射し込む強い陽射しを受けながら、スレイドは汗を拭い溜息を吐いた。
「……終わったな」
 ルシカは少年の頭を撫で、語りかける。
「もう大丈夫よ。あんた、よく頑張ったね」
 反応はない。スヤスヤという寝息だけが、少年が安定した状態にいることを物語っていた。ルシカは少年を見つめ、深く溜息をつく。
「それにしてもこの子、本当に綺麗な子ね。女の子みたい」
「胸がないから男だ」
「発育不全な女の子かもしれないじゃない!」
「俺もその可能性を考えたから、服を脱がせる時に確認した。男用の下着を身につけていたし、一応『一物(いちもつ)』もあるようだ」
 その言葉に、スレイドも同様少年の性に確信が持てなかったことに気がついた。
「……見たの?」
「見てはいないが、下着の上からでもわかるだろ?」
「──まぁ、そうね。じゃ、男の子なわけか。分かったわ」
 そう言うと、ルシカはじっと少年を見つめた。
「まったく。アーシアンって生き物は、何でこんなに美しいのかしらね。アーシアンの女が来たりした日には、嫉妬でそいつを殺しちゃいそうよ」
 ルシカはそう言うと腕を組み、スレイドをチラリと一瞥(いちべつ)した。
「男の子じゃ、あんたが浮気する心配もないからね」
「浮気なんかしていない」
「……あら、それ本当?」
 ルシカは疑うように目をすがめ、腕を組んで睨み据えてくる。場の空気が気まずくなり、スレイドは「フン、馬鹿馬鹿しい!」と語気を荒げた。
「それより、俺はアーシアンって生き物が大嫌いだ! 見かけがどうであれ、アーシアンの近くにはいたくない」
「あらっ! じゃぁ、この子はどうする気? 追い出すの?」
「意識が戻れば、出て行ってもらうさ」
 スレイドは低くそう答えた。 

* * *

 どこかで声が聞こえる。すぐそばで、誰かが声をひそめて話していることに気がついた。
 男性と──女性の声。
 女性が「アーシアンのおじさんが『助けて欲しい』って言っていたのは、この子のことなのかしら?」と言っているのが聞こえた。

 ──アーシアン? 一体、誰のことを話しているのだろう。

 女性の言葉に対して、男性が「いや、必ずしもこいつとは限らない」と答える。

 ──こいつとは、誰のことを言っているのだろう。
 話の内容を理解しようと意識を集中した──その時。
「あっ、気がついた!」

 開かれた視界が、見知らぬ女性の姿を捉えた。今まで見たことがない姿だ。小麦色の肌に、長い黒髪をひとつに結んでいる。琥珀色の大きな瞳に、快活そうな表情。アーシアンのような容姿こそはしていなかったが、それでも充分に美しい女性だった。
 対して前には、膝を立てて座りながら自分を振り返る男性がいた。その目はとても鋭くて、まるで獲物を狙う獣のようだ。彼の警戒心が、瞳を通じて伝わってくる。そして、とても深い緑色の瞳。
 ──この目、どこかで見たことがある……。
 サルジェがぼんやりそんなことを考えている中、女性がニコニコと笑いながら近寄ってきた。
「ずいぶん長いこと気を失っていたから、心配しちゃったわ。もう太陽なんかとっくに沈んで、月があんな高くまで昇っているのよ」
 女性の指し示す方位に、銀色の──でも、醜く破損された月が見えた。それはエデンでも何度も見た月の姿だ。しかし、その窓辺は今まで見たことがない。木造で荒れ果てて、今にも崩れてしまいそうな建物だ。
「ここは……?」
「『赤い砂の街』よ。あなた、水汲み場のそばで倒れていたそうよ。覚えてない?」
「──倒れて?」
 そう言ってサルジェが体を起こそうとした、その時。
「痛っ──!」
 右腕に激痛が走った。左手で押さえたその時、包帯が撒かれていることに気が付いた。一体誰に手当されたのかを考えていた、その時。
「傷を縫った」
 男性がぽつりと言った。
「化膿はしていないが、しばらくは痛むぞ」
「あなたが……傷の手当てを?」
「そうだ」
「あ、ありがとうございます。あなたは、医者なのですか?」
 男性はムッとした表情を浮かべた。サルジェの言葉が癇(かん)にさわったようだ。
「医者じゃなくても、傷口ぐらい誰でも縫える! 縫い方が気に入らないなら、エデンに帰ってアーシアンの医者に診てもらうんだな!」
「い、いえ、その……すみません。ありがとうございます」

 ──それにしても。
 それにしても、何て不思議な髪の色をしているのだろう。
 茶色ではない、純粋な赤と言うべき髪の色をしている。
 赤? 否、紅と言うべきか。まるで、血のような色だ。
 その髪に対照的な程、深い緑色の瞳。
 肌は白いが、アーシアンのような病的な白さとは違い、健康的に見えた。
 そして何よりも印象的なのは、くっきりとした目鼻立ちだった。
 アーシアンは遺伝子操作がなされているため、容姿も美しくデザインされている。そんなアーシアンの中に混ざっても、目の前にいる彼の美しさは群を抜くだろう。彼の美しさは容姿だけではない、おそらくは内面に秘められた荒々しい野性美にあるのかもしれない、そんなふうにもサルジェは感じていた。
「──何でじろじろ見ているんだ」
「あ、いえ……。ごめんなさい」
 慌てて視線を逸らすサルジェに向かい、男性は苛立つように舌打ちをする。
「さっきから謝ってばかりだな! お前は謝ることしか出来ないのか!」
「いえ、そういうわけじゃ……」
「なら、どういうわけか説明しろ!」
「あの……、私、どうしたらいいか分からなくて──その……」
 目の前の男性は呆れるように溜息を吐くと、かぶりを振った。
「見かけも女みたいだが、性格はもっと女々しいようだな。人と話す時は、もっとはっきり声を出して話せ!」
 ──取り付く島もない。サルジェは少し泣きたくなった。
 こんな頭ごなしに質問攻めにあったこと自体、初めてだ。正直、あのグローレンでさえここまでひどくはなかった。目の前にいる男性を「怖い」とサルジェは感じてしまった。同時に「苦手なタイプだ」とも思った。こんな怖い人とは、絶対に自分だったら一緒にいることなど出来ない──そう思う。一緒に暮らしているだろう目の前の女性が、まるで天使のように思えた程だ。
 そんな空気を読み取ったのか、女性が笑って仲裁に入った。
「まぁまぁ、いいじゃないの『スレイド』!」

 ──スレイド?

 サルジェの目が大きく見開かれた。
 ネクタスの言葉が、再度脳裏に過ぎる。

<『スレイド』を探せ。彼ならきっと、君の助けになってくれる>

 ネクタスが命を賭けて託した希望。ヴァルセルの息子であるスレイド。確かに、今目の前にいる男性は写真のヴァルセルによく似ている。紅い髪であることを除いては──。
「この子、きっとあなたのイイ男ぶりにうっとりしていたのよ。──ねぇ、そうでしょう?」
 女性が仲裁する。しかし、サルジェの意識はスレイドという名だけに向けられていた。
「あの! あなたが、スレイド……さん……なんですか?」
 その問いに、スレイドは怪訝そうに顔を顰めた。
「そうだ。それが何だ」
「その髪は一体、どうしたのですか?」
 
 スレイドの中で、以前ホテルに訪れた男性の言葉が再び過ぎった。
<もうすぐ、彼がここに来る。その少年に、力を貸して欲しい>
 目の前にいる少年がそうであることを、今この瞬間確信した。

「貴様、何者だ?」

 警戒心をさらに強くして、低く尋ねた。スレイドを包む気が、一瞬にして攻撃の色に変わった。その気迫に、サルジェは気後れしてしまった。
「あ。わ、私はアーシアンの……クリティカンで──」
「そんなことは聞いていない! 貴様は何者で、何故ここにいて、何故俺のことを探しているのかを聞いている!」
 襲いかかるような勢いに、すっかりサルジェは怯えてしまった。小さく震えてスレイドを見上げるサルジェの様子に同情したのか、女性が間に入った。
「ちょっと、スレイド! さっき目が覚めたばかりの子に、そんな詰問するような言い方やめてちょうだい!」
 そう言うとサルジェの横に座り、肩を抱き寄せる。
「……ごめんね、怖い思いさせちゃったね」
 女性は母親のように言い聞かせながら、サルジェの頭を優しく撫でた。スレイドは面白くなさそうに「フン」と鼻を鳴らす。
「見た目がいいと、途端に依怙贔屓(えこひいき)するんだな」
「そうじゃないわよ! あんたこそ『子供には優しくしなさい』って、前から何度も言ってるじゃない! 何でそれが出来ないのよ!」
「子供だろうが何だろうが、胡散臭いヤツを警戒するのは当然のことだ!」
「この子のどこが胡散臭いっていうのよ! もう少し、人を見る目ってものを養ったらどうなの!」

 喧嘩が始まってしまった……。
 
 プイッと頬を膨らませた女性は、にっこり笑ってサルジェの頭を再び撫でた。
「ごめんね。彼は人の本性を見抜けない、疑い深いヤツなのよ」
 聞こえるように言われた嫌味に、スレイドは明らかな程機嫌をそこねた。「チッ」と大きく舌打ちすると勢いよく立ち上がり、バタンと扉を閉めて出て行ってしまった。その音にビクッとサルジェが肩を振るわす。
「おぉ、怖! ──大丈夫、心配しないで。後で私がたっぷり、説教しておくから。彼はすぐにキレる短気な性格だけど、根は悪くないの。明日の朝には、今のことなんてなかったかのように接してくれるはずよ」
「でも、私のせいで二人を喧嘩させてしまって……」
 サルジェの言葉に、女性は声をあげて笑った。
「あんなの喧嘩のうちに入らないわ! 私とスレイドの間では、あんな言い合い日常茶飯事なの。だから、気にしないでね。それより、もう今日は休みなさい。詳しい話は明日にでも出来るわ。それより、無理して熱を出したら大変よ。──ね、そうしなさい」
「あ、ありがとうございます」
 サルジェは礼を言うと、傷を庇いながら横になった。
「私達は隣の部屋にいるわ。何かあれば、遠慮なく声をかけてね」
 そう言って扉を閉めかけた──が、「そうそう!」と言って再び開けた。
「ちゃんとした自己紹介がまだだったわね。私は『ルシカ』。このホテルのオーナーよ。彼がスレイドなのは、もう知ってるわね。で、あなたは……?」

 サルジェは「サ……」まで言いかけて、言葉を止めた。

 サルジェ。
 この名を、何だか使いたくなかった。
 嫌いな人達に何度も呼ばれたこの名前。
 そして、アーシアンの──否、アーシアンとしてだけではなく、クリティカンであるという過去も捨てたかった。さらに言い訳をすれば、サルジェという名前で生きていくことで、アーシアンの警察に見つかる危険も充分にある。

 だが、何て名乗ればいいのだろう。

 ルシカは返答を迷う自分に対して、あどけない表情で答えを待ってくれている。それは、素性の知れない自分を受け入れてくれているルシカの優しさだ。その優しさを、いつまでもはぐらかすような態度でいるのは気が引けた。
 それで──。
 それで、咄嗟に浮かんだ名前が、これだった。

「ル、『ルーカス』です」

 英雄ルーカス。
 今から200年以上前に実在し、アーシアンの元老院でありながらヒューマノイドタウンを転々として、多くのヒューマノイドに癒しと救いを授けた人物。最終的にアグティスにヒューマノイドの解放を交渉するも、その約束の前日に暗殺されたという噂だ。ヒューマノイド達に尊敬されている存在。そんな存在の名前を借りてしまう自分を、些か烏滸がましすぎると瞬時に猛省する。やっぱりやめて、本名を名乗ろうかとあれこれ迷ったが──時はすでに遅かった。
「ルーカス! いい名前じゃない。ヒューマノイドでは英雄ルーカスにちなんで、息子に同じ名前をつける人も多いのよ」
 ルシカはあっさりと受け入れてくれた。
「じゃ、おやすみね。ルーカスちゃん」
 そう言うとウィンクをし、扉をパタリと閉めた。

* * *

 ルシカが寝室に入ると、一足早く部屋を出たスレイドがベッドで横になっていた。ルシカは手を腰にあてると、目をすがめてスレイドを見下ろした。
「スレイドったら! なぁに? あの大人げない態度!」
 スレイドはベッドで仰向けになったまま、悪びれる様子さえ見せずに言い放った。
「──フン。怪しい奴に警戒するのは、ごく当然の防衛本能だ」
「確かに素性は分からないけど、彼まだ子供じゃない! あんな目くじらたてることないでしょ!」
 真剣に怒っている素振りのルシカに向かい、スレイドはわずかに体を起こして視線を合わせた。
「お前こそ、あいつには妙に優しいんだな」
「まぁね。あの子が悪者じゃない、って──そう確信しているから」
「その根拠は何だ?」
 スレイドの問いに、ルシカはウィンクしてみせた。
「『女の勘』よ」
 スレイドは呆れたような表情を浮かべると、頭の後ろで手を組んだままドサリとベッドに倒れ込んだ。
「それじゃぁ、あてにならないな」
「ん──。それよりも、今回は相手が男の子で、スレイドが浮気する心配がないっていう安心感からかな」
 そう言いながらルシカは服を脱ぎ、下着姿でスレイドの上に覆い被さった。ルシカの豊かな乳房が、スレイドの胸にふわりと被さる。スレイドは頭の後ろで手を組んだまま、目の前のルシカを見つめた。
「またそれを言うのか? 俺は浮気したことなんてない」
「本当? そんな嘘、信じないわよ。この街の女は全員、隙あらばとあなたのことを狙っているんだから。用心してよね」
 ルシカは艶めかしい吐息をつきながら、スレイドのシャツのボタンを外していく。スレイドは口元を上げて笑うと、からかうように呟く。
「──フゥン。なら、お前の疑いを真実にするのも悪くないな」
「またぁ! そんなこと言って……今日は『お仕置き』しなくちゃね」
 そう言うと、ルシカはスレイドの唇に自分の唇を押し当てた。

* * *

 一方、隣の部屋でルーカスと名乗ったサルジェは、じっと天井を見つめたままだった。
 ──私は、今日からルーカスなんだ。
 何だかしっくり来ない。名前の方が自分より一回りも二回りも大きくて、ひとり歩きをしてしまうかのような、そんな感覚がした。だが、ルーカスにならなければならない。そうでなければならないのだと──そう自分に言い聞かせた。

 英雄ルーカスはラヴィエルを始祖に持ち、ヒーリングの能力に長け、医者のようなこともやっていたと聞く。それだけでなく、彼はヒューマノイドとエデンとの対立の「中心」に立ち、自ら和解を交渉した人物としても知られている。エデンにおいてルーカスは「変わり者のアウトロー」としか扱われていないが、ヒューマノイドタウンにおいてはまさしく英雄であり、ほぼ神にも近い存在だった。まさか、そんな人の名前を借りてしまうなんて……考えれば考える程、何だか申し訳ない気持ちになってくる。
 ──でも、本当になれるのかな?
 いや、「なれるかな」じゃなく「なるしかない」のだ。ルーカスの遺志を継いだのだから、ルーカスとして生きなければならない。自らの判断と意志によって。
 思えば今まで、誰かの優しさに甘えてばかりいた気がする。懐深く自分を包み込み、支えてくれていたネクタスがいない今、どうやって独り立ちすればいいのだろう──そんな不安に駆られる。

 果たして、ネクタスは無事なのか。
 ティナは一体、どうなったのか。

 考えたら不安が一気に押し寄せてくる。恐怖と心細さから、声をあげて泣いてしまいたくなる。
 でも、レジスタンス活動をするにはそんな弱虫でいちゃいけない。そんな弱音ばかり吐いていちゃいけない──ルーカスはそう自分に言い聞かせた。

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