第十四章 「生きる」ための旅立ち
サルジェが寮の自室に戻ったのは、深夜の2時過ぎだった。1日中歩き続けた上にとても色々なことがあったせいで、心身共に疲労困憊だ。倒れるようにしてベッドに倒れ込んだ次の瞬間には、深い眠りへと落ちていた。
目覚めた時、すでに周囲は静けさに満ちていた。朝7時、寮にいるクリティカン達が出勤する時間はいつも騒然とするのだが、どうやらその時間さえも気づかずに眠り呆けてしまったようだ。時計は今、朝の9時を示している。7時間眠ったおかげか、疲労もだいぶ回復していた。昨晩ドルケンに殴られた際強打した背中に痛みは残るが、それ以外は特に疼痛も感じられない。その上、今日も非番であることを心の底から感謝した。そうでなければ、今晩起こるだろう作戦も実行が難しく、そして、ネクタスがくれたメッセージについても、何も解けないままだったろうから。
サルジェはベッドから起き上がると、シャワー室に向かった。無数に降り注ぐ温かなミストを全身に浴びた後、普段着に着替える。白いブラウスに、サファイアのついたサテンのリボンを襟首にかけて、そのまま朝食を取ることなくアカデミーを出ると、自分の足でエデンの街へと向かった。
サルジェの頭上に、エアカーが走る透明の筒が幾重にも重なっていた。エデンにおける「空を走る道路」である。500年以上前に人類が滅亡した時、浮力を使って移動する透明の道路などはなかったと聞いている。突如現れたアーシアンの文明は、滅亡当時の地球人の技術を遙かに凌駕していたことになるが、そうした歴史的矛盾については誰も解明しようとしていない。
立ち並ぶクリスタルのビル群、塵ひとつない街道を、サルジェは歩き続けた。通り過ぎるアーシアンはみな端麗な顔立ちをした清楚な人々だが、どこか無機質である。この街には整った美と管理されたシステムがあるのみで、生きる力がどこにもない──サルジェはそんなふうにも思った。
──「生きる力」とは、何だろう……。
サルジェは、昨晩のドルケンのことを思い出していた。
ドルケンには「生きる力」を感じた。サルジェに怒りをぶつけたり、乱暴をしようとした背景には、ドルケンの中に秘められた「生きよう」とする強い欲求をねじ伏せられたことへの憤りが感じられた。
その反面、あの時の自分はどうだったろう──サルジェは考える。
あの時の自分に「生きる力」はなかった。ここを歩くアーシアン達のように、何事にも無関心──自分が生きることさえにも無関心だった、そう言わざるを得ない。
こうしてここを歩いている自分は、「生きる力」を取り戻しているだろうか──? 答えは「否」だ。ようやく会えたネクタスは、ほとんど何も説明することなく、メッセージだけを渡して消えてしまった。自分のクローン計画が進行していることも、自分が信じていた幸福な生活が崩れ落ちたことも、サルジェは何に対しても答えが見いだせていない状況なのだ。
──何もかもが不透明な状態で、どう生きていけばいいというのか。
だが、「希望が全くなくなったわけではない」それだけは感じていた。
ネクタスから手渡されたメッセージを見れば、何かが分かるかもしれない、何かが変わるかもしれない。そのことに期待をして、サルジェはひたすら道を進んだ。
* * *
アカデミーを出て1時間ほど歩いた後、サルジェは街の外れに到着した。そこは展望台のようにエデンの全貌が見え、遠くにはヒューマノイドタウンを見晴らすことが出来る。昨日行く宛もなく歩き続けたサルジェは偶然ここに辿り着き、この場所であれば人もさほど通らず、監視カメラでさえも設置されていない事実を知ったのだ。
サルジェは突き出た柵に腰を下ろし、遠くに視線を向けた。微かに見える山脈の山間に、住居や建物群が見える。あれが、最もエデンに近いとされているヒューマノイドタウン「レドラ」だ。あの街にはどんな人が住んでいて、どんな暮らしがあるのだろう。以前見た生命力に満ちあふれたヒューマノイド達が、人生の意味や目的などに迷うことなく、生命を謳歌しているのだろうか。無機質な暮らしと管理された世界から飛び出した後、どのような自由が待っているというのだろうか。
サルジェは、エデンのような閉じこめられた世界にいるぐらいなら、どんな厳しい街でも生きていける──そんなふうに感じた。それがただの逃避に過ぎないとしても、とにかく「ここを出たい」そんな思いでいっぱいになってしまった。
思えば、今まで一度でも「生の実感」を味わったことなどあっただろうか?
確かに、ネクタスの元にいた時は感じられていた。ティナと無邪気に庭を駆け回り、花の香しい匂いに酔いしれ、木漏れ日が踊るのを見つめ、風と共に歌っていた。
だが……。
だが、そんな大切な想い出さえも、今は脆く崩れ落ちてしまった……。
ネクタスが2年前と何も変わりないことは、よく分かった。この2年間、自分をずっと気遣ってくれていたことも実感した。
──だが、ティナは?
彼女はこの2年の間で、遠く離れた存在になってしまったのだ。あの、遠くの山間(やまあい)にかすむ、レドラの街々のように──。
ひとしきりレドラを見つめた後、サルジェは握りしめた黒いカードに視線を落とした。この中に、サルジェの知りたい情報がすべて詰まっているとでもいうのだろうか。サルジェはしばらく見つめたままだったが、決意をしたかのように唇を噛みしめると親指で作動させた。
目の前に無数の粒子が飛び出し、空中にネクタスの顔がホログラムとして浮かび上がった。ネクタスはまっすぐ、サルジェを見つめている。サルジェもそこに実際のネクタスがいるかのように、まっすぐ彼の目を見つめ返した。
「サルジェ。この2年間、君に連絡を入れなかったことを深くお詫びする。しかし、それは君の身を守るためだったということを、よく分かってもらいたい。私はこの2年間、いつだって君のことを考えていたし、君を守るための手段を講じていたんだ」
その言葉に、サルジェの目が潤んだ。昨日、ティナの本音を知ってしまったサルジェは、ネクタスの思いにさえも疑念を持ってしまっていた。そんな自分を猛省したくなった程だった。
「君のことだからもうすでに知っていると思うが、君のクローン『セイラム』の育成計画が2年前から立ち上がっている。計画の進行者はグローレンで、セイラムの賢さは君と全く同じでも、情緒や思い遣りを欠如させた状態の人物を育成しようとしているんだ。君は生命への慈しみや愛を知っているから、人権を欠いたクリティカンをデザインしようとはしなかった。しかしセイラムには、そんな慈悲心が欠片もないことだろう。グローレンがセイラムを通じて行いたい計画は、アンゲロイに継ぐ『戦闘クリティカン』を育成し、ヒューマノイドタウンをも完全に支配下にするという目論見だ。そうなれば、エデンにいる君達クリティカンだけでなく、多くのヒューマノイドも犠牲にあうことになる。その前に、ヒューマノイドの解放を目指してレジスタンスになったアーシアンは、全員殺されることになるだろう」
その言葉に、サルジェは視線を再びレドラへと向けた。自分のクローンが造られた目的は、戦闘クリティカンを造ってヒューマノイドの自由を奪うことにあったなんて。
「君が疑問に思うだろうことは、ほとんどこのメッセージに入れてある。何か質問すれば、ここに私が実在するのと同じように君の質問に答えることが出来るだろう」
ネクタスの配慮に、サルジェは目を見開いた。今一番「聞きたいこと」を、データであるネクタスに問うた。
「先生、教えてください。私が生まれた理由も、セイラム同様に『戦闘クリティカン育成のため』なのですか?」
「君が誕生した当初の目的は、『皇帝アグティスの後継者』になるためだった。しかし、その計画自体がすでに頓挫してしまったのだよ」
「どうしてですか?」
「残念ながら、その質問に対する答えを私は持っていない」
サルジェは考えを整理し、ネクタスが準備しているだろう答えを予測しながら質問した。
「では──皇帝アグティスとは何者なのか、また、『皇帝アグティスの後継者』に関する計画について教えてください」
「皇帝アグティスとは、未だかつて誰も謁見したことがない。唯一ヴァルセルのみが謁見を許されたという話があるが、ヴァルセルもそのことについて多くを語っていないので、謎のままなのだ。だが、アグティスはエデン設立当初からいることを思えば、ゆうに500歳を超えていることになる。彼はただの管理システムなのか、或いは本当に人の姿をした怪物なのか──誰にも分からない。そして、後継者の計画もアグティスによって命じられたという話もあるが、そのことについて知る者は、誰もいないのだ……」
「誰も? ヴァルセルさんですら──ですか?」
「もしかしたら、ヴァルセルは知っていたかもしれない。だが、私には何も語らなかった」
皇帝アグティス。
誰の前にも姿を現したことのない、謎の存在。
いわばこのエデンは、姿なき支配者に管理されているのだ。
──姿なき支配者。
それはあたかも、「神」のような存在なのだろうか。
それとも……。
それとも、アグティスは「アーシアンを生み出した創造主」のような存在なのか。
仮にそうなら、矛盾が紐解ける。
500年以上前に起きた天変地異によって、絶滅した人類。
僅かに生き残った人達が、今のエデンの基礎を作ったとされるが──その前に消えた文明よりも遙か進んだ文明となったのは、果たして何故だったのか。
その謎に、アグティスが一躍かっていたとしたら?
500年も生き抜いた皇帝が、その超越した力でエデンを創ったのだとしたら──?
アーシアンというのは、本当に「以前の文明で生き残った地球人」なのだろうか……?
「先生、『アーシアン』って、一体何者なのですか? 本当に、滅亡の際に生き残った地球人なのですか? それにしては、滅亡時の地球人よりも遙かに文明が発達しているようですが──」
「残念ながら、その質問に対する答えを私は持っていない」
サルジェは歯がゆそうに唇を噛んで宙を見つめた後、その質問を保留にすることにした。それとは違い、自分が一番聞きたいことについて聞く。
「では──私のオリジナルである『シリア』について、教えてもらえますか?」
「それについては、『彼女からのメッセージ』を直接君に聞いてもらった方が良いだろう」
サルジェは目を見開いた。
シリアからの、直接のメッセージ?
だとしたら──生前の彼女に会える、ということだろうか。
愕然としたままのサルジェの前でネクタスの姿が消えると、そこには美しい女性の姿が現れていた。それは、サルジェの幼い頃の記憶にある研究員の、在りし日の姿だった。シルクのように輝く金髪、翡翠色の大きな瞳、優しい笑顔。何度見ても、ティナに面影が似ている。僅かに胸が痛むことを思い返しながらも、サルジェは記録でしかないシリアを見つめた。
「──愛しい、私のサルジェ」
鈴の音色のような声で言った。
「お母……さん」
唇から言葉がこぼれた。
「このメッセージは、あなたが装置の中で胎児期間を終了した日に記録しているの。いわば、あなたの『お誕生日の時の記録』よ」
そう言って、シリアが笑った。
──誕生日。
今まで考えたこともなかった。まさか、クリティカンである自分に誕生日があったなんて。
「サルジェ。あなたはね、クリティカンとして産まれているけれど──私は、あなたのことを一度もクリティカンなんて思ったことはないの。あなたは、私にとって大切な『我が子』。愛する子なのよ。装置から出るまでの10年間、私はあなたを愛し、守り続けるって、ここで誓うわ」
シリアは凛とした表情でそう告げた。
「あなたは、アグティス皇帝の後継者のひとりとして育成するよう、命令が下されている。後継者のひとりということは、『あなた以外にも後継者がいる』ということ。そうである以上、あなたは常に危険に見舞われ、装置から出た後もライバル達と争い続けなければならなくなるかもしれない」
そう言って、シリアは悲しそうに顔を歪めた。
「──だけど、ね。私は……いえ、『私たち』は、あなたにひとつの希望を託したの。クリティカンはアーシアンの奴隷としてではなく、意志や目的を持って、『すべての人類のために』生きることが出来るのだと──そう証明するために、あなたの未来に賭けよう、って。この地球がエデンに住む限られたアーシアンのものではなく、地球全土に住むヒューマノイド達も含めたものであることを信じて、彼らのために闘う人達がいるの。私の友人であるヴァルセルやネクタスも、その闘いに参加している人達よ。──そして、私もそのうちの一人」
その言葉で、ようやくサルジェは理解した。
シリアが殺された理由は、処刑されたヴァルセルと志が同じだったからということを。
だとしたら、ネクタスも同様に命に危険が及ぶ可能性は高い。
もしかしたら、娘のレスティナにさえも──。
シリアが殺されたのは、ヴァルセルをリーダーとするレジスタンスがサルジェの命を守ろうとしていたことを勘づかれたからではないだろうか? それならば、あれほどグローレンが自分を嫌悪し、殺したがっている理由もよく分かる。サルジェを消すことは、レジスタンスの思惑に一石を投じることにもなるからだ。
もうすぐ、自分も抹殺されてしまう。
そして、それを避けるべくして、ネクタスは今日の深夜サルジェを逃がそうと目論んでくれているのだ。
でも……どこに?
一体、どこに逃げればいいというのか──?
考え倦ねいているサルジェの前で、シリアが穏やかに語っていた。
「今日、あなたと同じ誕生日にもうひとり、この世に生を受けた子どもがいる。その子はヴァルセルの息子で、これから先、あなたの友になるだろう存在よ。彼の名は、『スレイド』。あなたにとって『双子の魂』とも言うべき相手になるわ」
「スレイド……」
サルジェは小さく復唱した。
脳裏に、一度だけ見たヴァルセルの写真が甦る。凛々しい顔立ちをした青年。鋭い瞳の奥には、高邁な理想を実現させようとする強い意志が感じられた。
ヴァルセルはレジスタンスを立ち上げて処刑されたが、そのような重い使命を担う人物の息子というのは、一体どんな人物でどんな人生を生き、何を目的としているのだろうか。彼もまた父と同じように、理想の実現を目指しているのだろうか。サルジェは、スレイドという人物に会ってみたいという思いに駆られた。
「忘れないでね、サルジェ。これから先、あなたにどんな辛いことがあったとしても、あなたはひとりじゃない。あなたの細胞が分裂し、生命の営みを始めるその前からあなたを愛し、守り続けることを誓った人達がいるのだ、ということを。私はこの命を賭けても、あなたを守り続けるわ。このメッセージを聞いている頃、私はすでに死んでいるかもしれない……。でも、魂だけとなっても、あなたを守っているということを、絶対に忘れないで」
その言葉が、サルジェの胸に突き刺さった。
そうだ。シリアが感じているように、彼女はこの後命を落とす。シリアはそれを察していながらも、逃げることなくサルジェを最期まで守り通してくれたのだ。
サルジェの脳裏に過ぎる、血塗られた過去。
銃弾に貫かれ、目の前で崩れ落ちるシリアの体。
あの時、幼いサルジェも知っていたのだ。目の前の女性が、どれほど自分を愛してくれていたのかを……。
分かっていたからこそ、サルジェは心を閉ざすしか、術(すべ)はなかったのだ。
そう──。
サルジェは、思考操作をされて記憶を失ったのではない。
自ら望んで──
「自らの意志」で、記憶を消したのだ──。
それを思い出した瞬間、サルジェは嗚咽をもらした。
胸に張り裂けそうな程の痛みが走り、両手で押さえると声をあげて号泣した。
* * *
サルジェがネクタスからのメッセージを確認している頃、ネクタスは二年ぶりの我が家に戻り、自室の窓から外を見ていた。窓の向こうに広がる曇天を見上げ、ネクタスは小さく溜息をついた。
──ひと雨来そうだな。サルジェは今頃、どこにいるだろうか。
昨晩は時間がなく、サルジェに詳細を説明することが出来なかった。たったあれだけの伝達で、サルジェはことの重大さを察してくれたか──ネクタスには一抹の不安が過ぎる。この2年、サルジェをずっと放っておいたことを思えば、サルジェがすぐに自分のことを理解してくれなくても不思議はない、そう思えたからだ。だが、今はサルジェを信じるしかない……そう自分に言い聞かせた。
──と、その時。
「お父様。入るわよ」
扉の向こうで声がした。
ネクタスが返答するより早く、扉の向こうからティナが顔を覗かせた。
この2年の間で、ティナはすっかり女性へと変貌していた。背はすらりと高くなり、細身の割には豊かな胸がことさら女性らしさを際立たせている。
「……話って、何?」
怪訝そうにティナが言った。
「あ、ああ、すまない。実は──お前に大事な話があってね」
「だから、その話って何?」
ティナの言葉には、どことなく棘(とげ)があった。それはまるで、2年間エデンに一人きりにさせた父親を憎んでいるかのような口調だった。
「あ……ああ。今晩、私とお前はこのエデンを出ることになった」
突然の言葉に、ティナは愕然とした。震える瞳で、ネクタスを見上げる。
「──なにそれ。どういうこと……?」
「お前には何も話してやれなかったが──私は現在、エデンで非常にまずい立場にいる。このままでは、私は逮捕されるかもしれないのだ。下手をしたら、処刑されるかもしれない」
「処刑……ですって?」
ネクタスは無言で頷く。
「そうだ。私がそうなってしまったら、お前もエデンで居場所を失う。そうなってしまう前に、お前と私を匿(かくま)ってくれる組織に身を隠すつもりだ。その組織の仲間が、今夜、私とお前のために移動用ポートを準備してくれている」
焦りからか、ネクタスの口調が僅かに早まる。だが、ティナは父の話を聞きながらも微動だにしなかった。
「それに……安心しなさい。そこにはサルジェも一緒に行くのだ。──お前が大好きなお兄ちゃんも一緒なのだから、どこに行くのも心配なく──」
「勝手なこと言わないで!」
ティナに言葉を遮られ、ネクタスは目を見開いた。目の前に立つ愛娘は、動揺からか体をわなわなと震わせている。
「ティナ?」
ネクタスが肩に触れようと伸ばした手を、ティナは思い切り払いのけた。
「2年も私をひとりぼっちにさせておきながら、帰ってきたらいきなり『エデンを出よう』ですって? ……巫山戯ないでよ。私の居場所は『エデンだけ』よ! 汚らしいヒューマノイドの街なんか、一歩も踏み込みたくないわ!」
「しかし、ティナ。お前は昔──」
「昔の話なんかしないで! 私はもう、子供のティナじゃないのよ!」
ティナの頬を、大粒の涙が伝う。
「お父様がいない2年間、誰が私を守ってくれていたと思うの? 先生であるローゼンや、大勢の友達よ。私にとってはお父様やサルジェなんかより、彼らの方が大切だわ! ローゼンは私のことを本当に思ってくれていて、結婚まで考えてくれてるんだから!」
ネクタスは呆然と、ティナを見つめた。
あの無邪気で愛らしかった娘は、一体どこへ行ってしまったというのか。
今目の前に立っているのは、ネクタスがまったく知らない若い娘──そんなふうに感じてしまった。
「私、絶対に行かないからね! お父様やサルジェを選ぶぐらいなら、ローゼンと駆け落ちした方が遙かに幸せだわ!」
「ティナ! お前は何も分かっていない。お前は、エデンの治安部隊の恐ろしさをまったく理解していないのだ。たかが教師ごときが、お前の身を守れるわけがない。この私でさえ、お前の身を守ることが出来ないのだ。お前を守れるのは、ヒューマノイドタウンで暮らすアーシアンの優れたレジスタンス達だけなのだ!」
「だったら、私は今すぐ死んでやるわ! そうすればアーシアンの治安部隊といえども、死体には何も出来ないでしょ!」
ネクタスはあまりの衝撃に、言葉を失った。ただただ、かぶりを振る。
「ティナ。お前は、何ていうことを……」
目に熱いものが込み上げてくる。
誰よりも愛おしかった娘。目に入れても痛くない程に可愛がっていたはずが──このように命を粗末にする発言をするなんて。
──きっと、自分の育て方が悪かったのだ。ネクタスは、そう思うことしか出来なかった。
「とにかく、私は『絶対に行かない』からね! 無理矢理連れて行こうとしたら、舌を噛みきって死んでやるから!」
そう叫ぶと、ティナはネクタスに背を向け部屋を勢いよく飛び出した。バタンという音と共に閉められた扉を見つめ、ネクタスは沈痛な表情を浮かべた。
──シリア。赦してくれ。君とヴァルセルの娘を、私は幸せにすることが出来なかった。サルジェばかりに気を取られて、彼女には何もしてあげられなかった……。何も……何も……。
そう心の中で呟いた途端、膝を崩しその場で蹲(うずくま)った。
* * *
シリアとネクタスの思いを胸に、サルジェはエデンの街を歩いていた。右手には、二人の記録が残されている黒いカードを握りしめていた。まるで、お守りを握りしめるかのように。
──先生。お母さん。
心の中で、呼びかける。
──今まで私を守ってくれてありがとう。……私は決意しました。もう、絶対に後ずさりしません。もう、絶対に命を投げ出すようなことはしません。
サルジェの脳裏に、昨日までの無気力だった自分が過ぎる。生きる意味が分からず、自分の存在意義も見いだせず、ただただ周囲と社会に翻弄されていた自分。
だが、今はしっかりと前を見据えて歩く覚悟が出来ていた。今、こうして踏みしめる一歩が、着実に自分の人生になっていくのだ。一歩、また一歩と、自分の後に軌跡が生まれる。
──そう。
今の自分に「生きる意味」が分からなくてもいい。
こうして歩く、その「過程こそ」が、「生きるということ」なのだから──。
そう思った──その時だった。
「……サルジェだね」
背後から聞こえた声に、サルジェは瞬時に振り返った。
目の前には、あり得ない程白く透き通る肌をした男が立っていた。目は細くつり上がり、その中にある緑色の瞳がサルジェを冷たく見下ろしている。
──アンゲロイではない……。特別捜査員か。
サルジェが、目の前に立つ男の胸にあるバッジを見てそう考えていた時。
「元老院の言いつけで、君を迎えに来た。君の優秀な頭脳は、元老院でも有名でね。是非、君に功労賞を与えたいというのだよ。……良かったら、少しつきあってくれないか?」
サルジェは用心深く、目の前の男を見据えていた。小さく喉を鳴らして唾を飲み込むと、こう問うた。
「元老院に、会えるのですか?」
男は声をあげて笑うと、両手を広げた。
「勿論だとも。元老院全員が、君の功績を褒め称えている。さぁ、私と一緒に来なさい。時間はさほど取らせないから」
サルジェはしばらく立ちすくんでいたが、ゆっくりと歩みを進めた。エアカーの隣に立つ男の前で扉が開く。
「さぁ、急ぎなさい。元老院を待たせてはいけないからね」
そう言われ、サルジェが車に乗り込もうと腰を曲げた──その時。
かがめた腰をばねにして、サルジェは男に体当たりした。
奇襲を喰らった男は、呻き声をあげてその場に倒れる。素早くサルジェは踵を返し、勢いよく走り出した。
男は上半身を起こすと、声を張り上げた。
「逃げるぞ! 早く捕まえろ!」
その瞬間、壁に潜んでいた制服姿の男達がサルジェに向かって走ってきた。その男達は全員同じ顔で、端麗な顔立ちの人物だった。
──アンゲロイ!
アンゲロイ。その名の由来である天使の如く、美しい人物ばかりだ。だが、細身とは思えない程に運動神経が優れている。その上、彼らは先を読む力にも長けていた。サルジェが走り抜けようとしている路地からも、アンゲロイの一人が走ってきた。
だが、長身である彼らの身を逆にサルジェは利用した。掴みかかろうとするアンゲロイの脇を抜け、そのまま走り続けた。
「追え! 早くしろ! 奴を絶対に逃がすな!」
狂ったように男が叫び続けていた。
* * *
サルジェの逃走から、1時間が経過した。アンゲロイは街のあちこちで大捜索を展開していたが、一向にサルジェの足取りが掴めない。
業を煮やした男は、向かいたくない相手の元へと歩みを進ませた。自分の失態を絶対に認められたくない男。その男の元に歩み寄ると、苦虫を噛みつぶしたような表情でこう告げた。
「グローレン教官殿。……大変申し訳ございません。サルジェを、逃がしてしまいまして」
そう言って頭を深々と下げる。
男に背を向けた状態で、グローレンは忙(せわ)しなくタッチパネルを操作していた。グローレンの目の前で、サルジェによく似た少年のホログラムが浮かぶ。だが、これはサルジェではない。「セイラム」だ。立体的な彼の姿を見ながら、グローレンはパネルを操作し続けている。
「……貴様らしくないな、レイゾン。貴様であれば、確実にあの小生意気なサルジェの息の根を止められると思ったからこそ、特別に司令を出したのだぞ」
「そ、それは分かっております。──私とて、このまま奴に出し抜かれたまま終わる気は、毛頭ありません」
「そうか、それは良かった」
そう言うと、グローレンはパネルを閉じた。徐にレイゾンへ向き直る。
「それはそうと──ネクタスの方はどうなっている」
「まだ動きはありませんが」
「それなら、先に奴をしとめろ。奴の娘もろとも、人質にするんだ。そうすれば、サルジェも大人しく姿を現すだろう」
グローレンの冷酷な言葉に、レイゾンはうっすら笑みを浮かべた。
「御意」
頭を下げると、すぐに退く。
レイゾンからネクタス邸を捜査するよう司令が下され、アンゲロイはすぐに出動した。
時間は午後1時。周囲はのどかな昼下がりだというのに、ネクタスの家の周辺だけが物々しい空気に包まれていた。
アンゲロイの司令官と思われる男が一歩踏み出すと、銃を構えていたアンゲロイは全員駆けだした。司令官が手にしていたスイッチを押すと、みるみるうちに門が溶けて崩れ落ちる。そのままアンゲロイの部隊は乗り込んでいた。家の扉を勢いよく蹴破る。
──だが。
ネクタスの家は、誰もいないと思える程に静かだった。もぬけの殻となったフロアを、怪訝そうな表情でアンゲロイが進む。
その時だった。
猛烈な爆音と共に、ネクタスの家が吹き飛んだ。
爆風に煽られたアンゲロイの司令官は、周囲にいた部下もろとも飛ばされてしまった。
次の瞬間に顔を上げると、そこには燃えさかる家と庭だけが横たわっていた。サルジェとティナが大好きだった庭、季節毎に色とりどりに咲く花も、今はすべて燃えさかる炎の中にある。サルジェの大切な想い出である家は、音をたてて崩れようとしていた。
「司令官……」
アンゲロイのひとりが、立ちすくむ司令官に向かって声をかけた。
「ネクタスの仕業だ。奴は、私たちがここに来ると最初から分かっていて罠を仕掛けたんだ」
そう言うと、司令官はネクタスの家に背を向けた。
「行くぞ。ここにもう用はない。街でネクタスと娘、サルジェを探すのだ」
「はい。ですが、我々側の負傷者の救助は──」
家が爆破される時、数名のアンゲロイが中に入ったのを確認している。大きな爆発だったので即死の可能性は高いが、中には負傷して生きている部下もいるかもしれない。しかし、司令官は首を横に振った。
「『代わりはいくらでもいる』。それよりも、命令の方が優先だ」
そう言うと、そのまま車に乗り込んだ。
* * *
サルジェとネクタスの指名手配情報は、瞬く間にエデンで広がった。あちこちのモニターにサルジェとネクタスの顔が表示され、道行く人々は見慣れない光景に足を止めた。エデンが全都市一斉に指名手配を発令するのは、実に二十年ぶりである。ヴァルセルが、皇帝アグティスに反旗を翻した時以来だった。閑静な住宅街だけでなく、レドラに通じるエデン唯一の雑踏とも言える空港内にもそれは流された。モニターには、サルジェがクリティカンであることや皇帝の命に背いた凶悪犯罪を犯したということ、そして、ネクタスはヒューマノイドタウンのレジスタンスに手を貸し、皇帝の叛乱を企てたとして報道されていた。
ちょうどその時。モニターの前のベンチに、ひとり項垂れて座る少年の姿があった。
──ドルケンだ。
ドルケンは耳に触れた名前に顔をあげる。やつれた瞳をモニターに向けた瞬間、大きく目が見開かれた。
ドルケンの視線の先には、あのサルジェが映し出されていた。そこには「生きたまま引き渡した者には、多大な報酬が約束される」と書かれていた。
ドルケンは立ち上がると、モニターに引き寄せられるかの如く数歩進んだ。しばらく食い入るように画面を見つめた後、視線を足下に落とす。そこにはスーツケースと、上着がかけられている。自分はこの僅かな荷物を手にして、ヒューマノイドタウンに降りなければならない。そこで約束されているのは栄光の欠片もない、ただの雑役で終わる一生だけだった。
だが、そんな彼に「再度やり直すチャンス」が与えられたのだ。サルジェを捕らえ元老院に引き渡すことで、エデンからの追放処分が取り消されるかもしれないのだ。
だが──そんなこと、自分に果たして出来るだろうか?
サルジェは昨晩、自分を庇ってくれたのだ。暴行した自分を赦し、その身を投じた。彼は自分を案じ、そして、同情してくれたのだ。
ドルケンの中で葛藤が広がる。
しかし、サルジェのそうした思いよりも、今は自分の居場所を再度エデンに求めることで頭がいっぱいだった。このチャンスを、ドルケンは二度と手放すことは出来なかった。決意したように顔を上げると、その場にスーツケースを置いたまま、ドルケンは姿を消した。
* * *
サルジェが逃亡してから、11時間が経過しようとしている。アンゲロイは一向にサルジェの足取りが掴めないことに苛立ちを覚えていた。グローレンがサルジェのDNAを取り出した際につけた追跡装置も、エデン中心部から外れた郊外に装置のみで発見された。同時に、ネクタスと娘ティナの行方も分からない。エデン全体に警戒網を敷き、誰一人──鼠一匹たりともエデンから逃さない程の意気込みで、厳戒態勢を続けた。
しかし、サルジェはすでにアカデミーの内部にいた。下手に動くとかえって危険だと踏んだサルジェは、アカデミー内で閉鎖された研究棟の中に潜んで時を待っていたのだ。ここからなら、指示されたβ棟までそう遠くない。警備をしているアンゲロイが通り過ぎた後、すぐさま階段を駆け下りた。
時計は23時50分を示している。約束の時間まで、あと10分ほどだ。途中エレベーターを使うにしても指定された研究室に辿り着くまでは5分以上かかるだろう。約束の時間まで間に合うか──それ以上にネクタスは本当に来ているのか、様々な不安を抱えながらも、サルジェはひたすら走り続けた。
もう迷ってなどいられない。
サルジェは、「生きるために」この危機を乗り越えるしかなかった。
生きる理由など、後から考えればいい──初めてそう思った。
今、自分は心底「生きたい!」そう思っている。
それは、理屈じゃない。
誰のためでもない。
自分の本能の中で、「生きなければいけない」その言葉が何度も繰り返されていた。
そうだ。今なら分かる。
「生きることが当たり前」だと思った瞬間、人は「生きることに無気力」になるのだ。
だが、その命が脅かされた今、サルジェは「生きていることを当たり前」などと思えなかった。
それどころか、今まで生きていたことそのものが、シリアやネクタスの支えであり愛の力であったことを思い知らされ、「二人のためにも生き抜かなければならない」そう思った。
──もう私は、絶対に生から逃げたりしない。
私は誰のためでもなく、「自分のために『生きる』」!
そう決意して走り抜けるサルジェの瞳には、命の炎が灯っていた。
* * *
研究β棟、地下十四階、D研究室。
指示された場所に、サルジェは漸く到達した。息を切らせながら、辺りを見回す。そこは誰もいないかのように静寂が満ちており、真っ暗な闇の中にあった。
「……先生?」
小さく呼びかけてみた。
「先生。いるんですか? 私です、サルジェです」
その時だった。
部屋の奥が、一瞬にして光った。その明かりは奥から徐々にサルジェのそばまで灯っていき、やがてサルジェのいる空間すべてを白昼の如くの光に包んだ。
闇からいきなり光の元に引き出され、サルジェは腕で目を覆った。徐々に慣れてくる視界に、人影が映る。
「先生!」
安堵したように叫ぶサルジェだったが、返答はなかった。
その状況を訝しく思い、腕を目から離したサルジェだったが──
瞬時に息を呑んだ。
目の前にいたのは、ネクタスではない。
ドルケンだった。
ドルケンはほくそ笑んでいる。何かを企んだような表情で、サルジェをじっと見つめていた。
「……よう、サルジェ。また会うとはね」
サルジェは何も言えず、ただドルケンを見つめ返した。サルジェの動揺が伝わったのか、ドルケンはしたり顔で言う。
「僕は本来、この時間にはレドラにいたはずなんだ。そして、明朝にはインフェルンに向かい旅立っていたところさ。そんな僕が今こうしてお前の前に立っているというのは……まさしく奇跡としかいいようがないね。そもそも僕は、お前がどこにいるかもわからず、闇雲に探していただけなんだ。ここにだって偶然来ただけなのに、あろうことかお前の声がするとは──これぞまさしく、運命が僕に味方している証拠だと確信したよ」
そう言うと、喉を鳴らして笑う。
「……どうして? どうして、あなたが……」
「どうして、だと? 相変わらずおめでたい奴だな。お前、自分が指名手配になっていることを知らなかったのか?」
「指名手配──ですって?」
ドルケンは頷いた。
「ああ、そうさ。お前だけじゃない、ネクタスもな」
「先生も?」
「生憎、ネクタスがどうなったのか僕は知らない。だが、とっくに捕まったのかもしれないな。アカデミーには警戒網が張られていたが、ネクタスの家の方はノーマークだったからな」
ネクタスの家が焼失していることを、ドルケンは知らないようだった。だが、同様にその事実をサルジェも知らない。ネクタスが捕まったとしたら、自分の逃亡劇もあえなく幕を閉じる。そのことが、サルジェの心に重くのしかかった。
「絶望しているようだな、サルジェ。……気の毒に、同情するぜ。レジスタンスである教官なんかの下についたせいで、こんな思いをするとはな」
「先生を悪く言うな!」
必死に抗った言葉にさえ、ドルケンは笑いを堪えられなかった。ずっと願っていたサルジェを見下すということ、それが今、叶っているのだから。
「悪く思うなよ、サルジェ。僕は今、ものすごく絶大なチャンスを与えられているんだ。このエデンに残るという、絶対的チャンスをな」
「エデンに残る──? どういう意味ですか」
「貴様を捕まえて元老院に差し出せば、どんな褒美も与えてくれるっていうチャンスさ」
「あなたは……あなたは私を捕らえて、このエデンの永住権を求める気なのですか!」
「その通りさ! そうすれば僕は、あの馬鹿なグローレンの下でこき使われなくても、このエデンで自由に生きられる! 自由になれるんだ!」
サルジェは黙ってドルケンを見つめた。
ドルケンは得意そうな表情を浮かべているが、その顔が、サルジェには哀れに思えた。
自由。
ドルケンはそう言うが、このエデンに一体どれほどの自由があるというのだろう。
……そう、自分達は「囚人」なのだ。自由そうに見えるし、ヒューマノイドに比べたら富も権力も与えられた存在に思えるかもしれない。
しかし、本来は見えない存在「アグティス」によって支配された、絶対的な独占国家なのだ。
このエデンにいる限り、自分達は幸福な振りをして生きなければならない。無機質に、何も考えずただ受容して生きていくことが自由などと、サルジェには欠片も思えなかった。
「あなたは……あなたは、間違っています」
静かに語られた言葉に、ドルケンは目を見開いた。
「あなたは、このエデンに残ることが自由だと思っている。……でも、そんなことはない。そのことを今まで、あなたは充分経験してきたはずだ! このエデンに残るということは、あなたは目に見えない存在の支配下に置かれ、思考の自由も、表現の自由も奪われた状態に甘んじなければならないということなのです! それを、あなたは自由だとでも言うのですか!」
「黙れ! 貴様のような恵まれた子供に、何が分かる!」
ドルケンが怒鳴った。
「僕はこの世に誕生してからずっと、願い続けてきたんだ。この美しい都市、白い街、透明感ある世界の中で、自分が絶対的な権力を握ることを! ──そう。僕は、クリティカンであるというこの身分さえも白紙にしてもらうつもりだ! クリティカンではなく正当なアーシアンの血族として認めてもらい、やがては元老院入りする権力も身につけるつもりだ!」
サルジェは息を呑んだ。
ドルケン。アカデミーに入った当初は、親友だと思っていた。
ネクタスに彼と友情を築くことをやめるよう忠告されたが、サルジェはそれでも聞かなかった。サルジェにとって、ドルケンは信頼出来る友人だと思っていたからだ。
だが、今目の前にいるドルケンを見る限り、ネクタスの忠告は正しかったということを身に染みて実感する。ネクタスはすでに、ドルケンの本性を見抜いていたのだ。
だが──。
だが、それでも……
それでもサルジェにとって、ドルケンは親友だった。
それ以上に、憐れみを感じる存在でもある。
ドルケンにはきっと、シリアのように守ってくれる存在がいなかったのだろう。
そして、ネクタスのように深い心で受けとめてくれる存在も。
アーシアンの無機質で冷たい魂が彼の心を凍結させてしまったのだとしたら──それはサルジェにとって、気の毒でならないことだった。
「ドルケン。お願いです、目を覚ましてください! 元老院は、あなたにそのような権利を与えてはくれません。クリティカンとして生まれた者は、永遠にクリティカンでいなければならないのです! 例えあなたが私を捕らえたとしても、元老院はあなたが望む報酬を与えず、むしろあなたを抹殺するでしょう」
サルジェの言葉に、ドルケンが一瞬怯んだ。その隙を、サルジェは見逃さなかった。さらに叩き込むようにして告げる。
「クリティカンは、一生涯アーシアンの奴隷なのです! あなたが自由になる場所は、ここにはない! ヒューマノイドタウンにこそあるのです!」
ドルケンは微動だにしなかった。
サルジェは、静かに手を伸ばす。だが、差し出された手には力強さが感じられた。
「私と一緒に行きましょう! そして、本当の自由の地で新たな生を生きるのです! レジスタンスの人達はきっと、あなたのことも受け入れてくれます。だから、どうか私と一緒に──」
サルジェはさらに手を差し伸べた。
だが、ドルケンは一向に手を伸ばそうとしない。
しかし、その瞳には迷いの色が浮かんでいるのをサルジェは見逃さなかった。
ドルケンは迷っていた。
確かに、サルジェの言うことには一理ある。
ここには、見せかけの自由しかないかもしれない。否、それ以上に、ここにはクリティカンの自由を認めることなど、絶対に期待出来ないのかもしれない。
だとしたら──
だとしたら、サルジェと一緒に行くべきなのか?
サルジェだったら、自分を受け入れてくれる。
例え誰もが自分の敵になったとしても、サルジェだけは最期まで味方でいてくれるだろう。
──だが。
だが、ドルケンにとって「エデンを出る」という選択肢はあり得なかった……。
ドルケンにとって、エデンという場所は「自分の存在意義を肯定してくれる場所」だった。彼にとってヒューマノイドタウンに降りるということは「負け犬」になることそのものを意味していたからだ。ドルケンは深く息をついた後、こう言った。
「何か誤解しているようだな、サルジェ。僕は、このエデンにいて生きにくいと感じたことは一度だってない。それどころか、僕はここにいることこそが『存在意義』だと感じているんだ。悪いが、貴様のような『負け犬』と一緒に、ここを出る気なんかない」
そう言うと同時に、手にしていた銃をあげた。銃口をサルジェの額に向ける。
「貴様を差し出せば、僕の望む自由が与えられるんだ。こんな絶好な機会を逃すわけがないだろう」
「違います! あなたは、奴らに騙されている!」
「いいや、違うもんか! 僕は絶対に、貴様の言いなりになんかならないぞ。いつだって僕は思っていた。『最期に笑うのは僕だ』ってね。貴様を元老院に引き渡し、僕の目の前で朽ち果てる姿を見物させてもらった後、僕は自由になるんだ。貴様が恋い焦がれた自由を手に入れるんだ」
「何故です! 何故あなたは、そんなにまで私を憎むのですか!」
サルジェの瞳から涙がこぼれる。
ドルケン──。親友だと、思っていたのに……。
「『何故憎むか』だって? 当たり前だろ! 貴様は、僕の持ってないものを全て持っていた。美しい容姿も、優秀な頭脳も、そして、大切にしてくれる存在もすべて! 僕には、そのひとつさえ与えられなかった。……僕はずっと、貴様を憎んでいた。いつか──いつかきっと、僕も貴様と同じものを手に入れてやると、そう思っていたんだ!」
そう叫ぶと、両手で銃を握る。
「そうだ、いいことを思いついた。貴様を元老院に届けた後、遺体を剥製にして僕の元に届けさせよう。命がなくなった貴様を蔑みながら、僕は毎日を楽しんで生きてやる」
「あ、あなたはそこまで──」
「黙れ! もうご託は沢山だ! ……悪く思うな、サルジェ」
そう言うより早く。
ドルケンの銃口からレーザーが放たれた。
しかし──心のどこかで躊躇いがあったのか。レーザーはサルジェの心臓より遠く、右腕をかするだけだった。
撃たれた右腕に鋭い痛みが走り、サルジェは瞬時に傷を抑えた。抑えた指先から、真っ赤な血が滴り落ちる。床にひとつ、またひとつと血の滴が落ちていった。
「……今度は足を狙ってやる。逃げられないようにな」
そう言って、ドルケンは銃を下ろした。
「お願いです、ドルケン! もうやめて──」
苦痛の中でサルジェが叫ぶ。瞳から溢れた大粒の涙が、頬を伝って落ちた。
「覚悟しろ、サルジェ! 貴様もこれで『終わり』だ!」
そう叫んで、ドルケンは引き金に指をかけた。
サルジェは瞬時に目を閉じ、顔を背けた。
──撃たれる!
そう確信して、足に激痛が走る覚悟をした。
それと同時に、銃を撃つ音がした。
──来る!
だが、一向に痛みがない。音が聞こえてから、もう数秒は経過している。
何故、痛みがないのか。
怪訝に思ったサルジェが瞼を開けドルケンに顔を向けた──その時だった。
サルジェの目の前で、ドルケンが目を見開いていた。その表情は鬼気迫るものがあり、僅かに身構えてしまった程だった。
だが、ドルケンのその表情の理由をサルジェは瞬時に理解した。彼の額から、一筋の血が滴れ落ちたからだ。額から流れた血は鼻の根元で二筋に分かれ、顎に伝って床へと落ちる。それと同時に、ドルケンが膝を崩した。どさり──という鈍い音と共に倒れ込んだドルケンは、二度と動くことがなかった。
──誰が……一体、誰がドルケンを……?
サルジェが僅かに後ずさりした、その時。前方の壁脇に立つ人影に気づいた。
ネクタスだ。ネクタスは銃をドルケンに向けたまま、静かにサルジェに歩み寄った。
「先生! 無事だったのですね!」
サルジェの問いに対し、ネクタスの表情は堅いままだった。
やがて、ドルケンに視線を落とす。その目には、憐れみの色が浮かんでいた。
「……可哀想なことをした。彼も、このエデンの規律に殺された犠牲者だ」
そう言って、サルジェに視線を戻す。
「ドルケンは……彼は、ただ生きたかっただけなのだろう。その命を、私は奪ってしまった。その報いを、私はこれから受けなければならない」
覚悟したかのようなネクタスの言葉に、サルジェは激しくかぶりを振った。
「いいえ、先生! 先生は、私を助けて──」
「いいや、サルジェ。……いいんだよ、私のことを案じなくて」
そう言って、サルジェの肩に手を置いた。サルジェの目には、大粒の涙が浮かんでいる。
「もういいんだ、サルジェ。君は自由になりなさい。ここに眠る、ドルケンの為にも──」
その言葉に、サルジェは「ネクタスが自分と共に来ないこと」を悟った。
「い、嫌です、先生! 先生も一緒に行きましょう! ヴァルセルさんの遺志を継いで、ヒューマノイドタウンで私と先生と、そしてティナと一緒に幸せな暮らしを──」
「ティナもここには来ない。……ティナもドルケン同様、エデン以外では生きられない存在なのだ」
「──えっ? ……そんな」
たった一人で旅立たなければならない事実に、サルジェは愕然とした。
愛する者をここに残して、旅立つことなんか出来るはずがない。
否、絶対に出来ない!
「だったら、私もここに残ります! 先生やティナと一緒に──」
そう言って、激しくかぶりを振った。
「お願いです! 一緒にいさせてください! それが出来ないなら──」
二人と離れるぐらいなら、死んだ方がましです──その言葉を遮るように、ネクタスが言葉を続けた。
「駄目だ、サルジェ! 君は『生きて』、そして、エデンの歴史を──ひいては地球の歴史を、変えねばならん!」
ネクタスは両手でサルジェの肩をがしりと掴む。ちょうどその時、時刻が0時になったと同時に研究室の片隅で空間にひずみが生じた。「ワームホール」だ。そのワームホールの作動装置を手にしたネクタスは、掌の装置を見つめる。そこにはタイムリミットを示すかのように、「04:59」と表示され、一秒ずつ数が減っていった。
「もう時間がない、行くんだサルジェ!」
だが、サルジェは必死にかぶりを振り続けた。その勢いで、瞳から溢れた涙が宙を舞う。
「嫌です! 絶対に嫌です! 私ひとりで、生きていけるはずなんかありません!」
「大丈夫だ! 君はここから、スレイドのいるヒューマノイドタウン近くに辿り着く。そこからすぐに街に向かい、スレイドを探せ。彼ならきっと、君の助けになってくれる!」
「そんなこと、どうして先生に分かるんですか!」
「『私だからこそ』分かるのだ! 彼は、ヴァルセルの息子だ。彼の血を引いている限り、スレイドも情に厚く、そして、正義の為に尽くしてくれるはずだ」
「それでも嫌です! 先生とティナがいなければ──」
必死に抗うサルジェの肩を、ネクタスは力強く押した。
「いいから行け! もうすぐゲートが閉まってしまう。閉まる前に、早く──」
そうネクタスが叫ぶと同時に。
研究室の扉を蹴破って、男達が飛び込んできた。
──アンゲロイだ。
ネクタスの表情が硬直した。サルジェの肩を掴んだまま、異次元ポートの前に押し出す。
「行け! サルジェ、行け!」
そう言って、サルジェをゲートに押し込んだ。倒れ込むサルジェが立ち上がる隙を与えず、すぐさまパネルを操作する。
サルジェの目の前で、ゲートの扉が閉まった。目の前には、ネクタスの後ろ姿だけが見える。
「先生!」
その叫びに、ネクタスは静かに振り向いた。
その顔には、今まで見たことがない程の慈愛に満ちた笑みが浮かんでいた。
異次元ポートの中にいるサルジェには、もうネクタスの声が届かない。
ネクタスは瞳で、サルジェに語りかけた。
──生きなさい、サルジェ……。
そう語ると同時に、ネクタスの指が作動スイッチに触れた。同時に、サルジェの体が宙に浮く。
「いやだ……そんな、先生!」
次元の隔たりが、サルジェとネクタスの間に壁を作った。
サルジェの目の前で、アンゲロイがネクタスに向かい銃を放つ。無数の銃弾を受け、ネクタスはその場で膝を落とした。
サルジェは目を見開いた。
この光景──。
何度も思い出した、この光景。
自分の母代わりであったシリアが銃弾に倒れる風景。それが、今度は父代わりであるネクタスに変わるとは──。
為すすべなく、サルジェは叫んだ。
「先生! 先生──っっ!」
サルジェの叫びも虚しく、ゲートに入ったサルジェの体は異次元で移動し始めた。
最期に見たネクタスの姿は、アンゲロイに腕をつかまれ、ただ為すがままに引きずられる姿だった。自分を守って、命をかけたネクタス。その姿に、サルジェは思わずこう叫んでいた。
「お父さ──ん!」
サルジェの意識は、次第に遠のいていった。
* * *
どのぐらい、時が経ったのだろうか。サルジェは冷たい感触を背中に覚え、目を覚ました。
サルジェの視界に飛び込んできたのは、無数の星明かりだった。紺碧の空に敷き詰められた白い小さな光が、サルジェを見下ろしている。
──星だ。星が、あんなに沢山。
こんなに輝く星を、自分は今まで見たことがない。サルジェはそう思った。しばらく星に見とれていたサルジェだったが、記憶が戻ると共に現状を思い出した。
「先生!」
瞬時に立ち上がるも、そこにネクタスの姿はない。
否、そこはアカデミーの研究室でもなく──砂漠のど真ん中だった。
──ここは、一体……。
やがて、記憶が徐々に蘇っていく。
そうだ、ネクタスはこう言っていた。「スレイドのいる街のそばに、辿り着く」と。だとしたら──ここはヒューマノイドタウンなのか?
だが、サルジェはすぐに歩き出す気分にはなれなかった。砂漠の夜は芯から冷え込む。しかし、どうしても移動する気にならない。
エデンに残してきたネクタス、ティナ。二人のことを思うと、自分ひとりがのうのうと生きることなど出来ない──そう思った。
だけど──。
だけど、だからといってここで死んでいいのだろうか?
そうしたら、ネクタスは何のために命を賭けてくれたというのか。
シリアは、何のために自らを犠牲にしたというのか。
二人はとてつもない危険な橋を渡って、サルジェを守ってくれたのだ。その恩に報いる為に出来ることは、サルジェが「生きること」──それしかなかった。
サルジェは決意したように唇を噛みしめると、第一歩を踏み出した。
周囲を見回しても、そこにはエデンの気配はなかった。きっとレドラよりも遠く離れた場所なのだろう。
やがて、サルジェは北極星の下あたりに、小さな街があることに気がついた。あれが、スレイドのいる街なのだろうか?
だが、悩んでいる時間はなかった。
サルジェの右腕からは、生温かい鮮血が滴れ落ちている。サルジェは右腕の袖を破りとると、包帯代わりに傷に巻いた。
──あそこにきっと、スレイドがいるはずだ。
そう決意すると、そのまま砂漠を走り出した。