第十三章 孤独
自分のクローン計画が進行している──。その重い事実を知って以来、サルジェの中には焦りと同時に絶望感も募っていた。
インフェルン赴任契約の2年を過ぎたのに、未だネクタスからは何の連絡もない。連絡はおろか、この2年間サルジェにネクタスからの便りはいっさいなかった程だった。ネクタスから連絡が入ればその内容はすべてグローレンの知るところとなるだろう──その危険を回避するために、ネクタスがあえて連絡をして来ないのだということも、サルジェはよく分かっていた。
しかし、頭では理解していても、心で受けとめられたかと言えば嘘になる。この2年間、どれほどネクタスの声を聞きたかったことか。どれほど、ネクタスに慰めてもらいたかったことか。
サルジェにとってネクタスは、恩師以上の存在だった。父親でもあり、また、誰よりも自分を理解し、愛してくれる存在でもあった。ネクタスの元で育った3年間、まるで太陽のように暖かいネクタスの愛に包まれ、自分がどれほど幸せだったか。もしネクタスが自分の指導教官でなかったらきっと、一生涯であのような幸せを感じることはなかっただろう──ネクタスの元を離れた2年間で、サルジェはそのことを厭という程味わった。
──もう、私には「時間がない」。
サルジェはそう実感していた。
サルジェと同じ頭脳を持ち、かつ、「グローレンの言いなり」になるクローン・セイラムが誕生すれば、早々にサルジェは始末されてしまう。オリジナルであり、母親のように自分を育成してくれた研究員シリアが、無惨に殺されてしまったように。
だけど、これほどまでに敵だらけのアカデミーの中で、一体どのように自分は動けば良いのかまったく分からない。誰に相談していいのかも分からない。
ひとりで考えていても埒(らち)があかないと感じたサルジェは、アカデミーの事務局に赴いた。ネクタスが戻っているか、契約が更新されているのか否かを知りたかったからだ。
サルジェの質問に、クリティカンの量産型クローンと思しき無表情の女性事務員が淡々と答えた。
「ネクタス元教官との契約は、3週間前に終了しております。すでにエデンの自宅に戻られていると、記録には残っています」
「エデンの自宅に? ──まさか。それなら、アカデミーに顔を出しているはずでは……」
「アカデミーには一度も立ち寄っていません。アカデミーと契約する研究員ではありますが、関係者ではありませんので」
サルジェの心は、不安で掻き乱されそうだった。あれほどまでに自分を愛してくれていたネクタスが、戻ってきているのに何の連絡もないということは不自然に思えた。
もしかして、ネクタスの身に何かあったのだろうか。しかし、これ以上の質問をここでするのは無意味のように思えた。
「分かりました。ありがとうございます」
そう言うと、その場を後にした。
事務局を出た後、サルジェはすぐにネクタスの自宅へと向かった。
もしかしたらネクタスは今、家にいるかもしれない。心からそうであることを願った。
ネクタスの家に向かう道をエアカーで移動するのは、かれこれ2年ぶりだ。思えば、アカデミーで監禁されたような生活が始まって以来、初めてというこうとになる。久しぶりの我が家に向かうことを思うと、少し気持ちが晴れ晴れとした。2年ぶりに会えるティナとの再会も、心から楽しみだ。
──ティナ、さらに綺麗になっているだろうな。
結局、2年前の別れ際にした約束は、今でも果たされていない。ティナにデートを申し込むことも出来ていないし、あれから身長も大して伸びていない。きっと今でも、あの派手なピンク色のブラウスに袖を通すことが出来ることだろう。
サルジェは、ガラスに映る自分の顔に目を向けた。大きな翡翠色の瞳には、不安の色が強く顕れている。15歳になっても未だ変声期さえ訪れず、少女と間違われてしまう自分。いつになったら、美少女に成長したティナの隣に立つことが出来るのだろう──ふと、そんなことを考えてしまっていた。
エアカーが静かにネクタスの家の前で停車した。車から降り、サルジェは辺りの空気を深く吸い込んだ。ネクタスの家の庭は、様々な木々や花々が植えられている。初夏を迎えた庭の木は青々と茂り、ティナが大好きな花ポピーが風に揺れている。3年間共に過ごした庭と再会し、サルジェの心は躍った。
門の前に立つと赤外線がサルジェを認識し、来客があったことを邸内に知らせた。それとほぼ同時に、中からアンドロイドが姿を現す。シルバーコーティングされて二つの赤い目を持つアンドロイドは、門を開けることなく格子越しにサルジェと向き合った。
「お久しぶりです」
サルジェがそう言うと、アンドロイドも頷いた。
「サルジェ坊チャマ、オ久シブリデス」
アンドロイドだけに、その言葉に感情や感慨はまったく感じられなかった。
「ネクタス先生に会いたいのですが、ご在宅ですか?」
「ネクタス様ハ、二年前ニ旅立タレタ後、一度モ戻ッテ来テオリマセン」
意外な返答に、サルジェは目を見開いた。思わず門の格子を両手で握る。
「そんなはずはありません。3週間前にこちらに戻っているはずなのですが……」
「イイエ。戻ッテオリマセン」
サルジェはしばらくアンドロイドを見つめた。アンドロイドには感情がない。そのため、プログラムされた命令通りに行動する。だから、アンドロイドが嘘をついている可能性はゼロだった。
「……分かりました。それなら、ティナはいますか?」
「レスティナ様モ、マダ学校カラ、オ戻リニナッテオリマセン」
「そうですか。それなら、家の中で待たせてもらってもいいですか?」
「ソレハ出来マセン」
はっきりと示された拒否に、サルジェは動揺した。
「どうして!」
「ネクタス様カラノゴ命令デス。『ネクタス様ガ不在時ニハ、何人(なんびと)タリトモ家ノ中ニ入レルナ』ト」
「私は例外でしょう? だって、一緒に暮らしていたのだから!」
「残念デスガ、サルジェ様ノコトニツイテハ、何モ仰ッテイマセンデシタ」
サルジェは衝撃を隠せなかった。
ネクタスは、サルジェがここに来ることを想定していなかったのだろうか? 否、ネクタスはとても賢い人物だ。サルジェがここを頼りにすることぐらい、予測しているはずだ。
だとしたら──。
もしかしたら「この家でさえも、すでに危険な場所なのだ」と、そう察していたのだろうか。この家が、サルジェの安全を守ることが出来ないことを、ネクタスは知っていたのかもしれない。そして「だからこそ」、ネクタスも姿を眩ませているのではないだろうか?
「……いいです。分かりました」
サルジェはそう言うとそのまま後ずさりし、門に背を向けてもと来た道を歩き出した。
一体、ネクタスはどこに行ってしまったのか──
サルジェの心の中は、そんな思いでいっぱいだった。
もしかしたら、すでにどこかで殺されてしまったのだろうか?
否、仮にそうなら、ネクタスの自宅にもすでに調査が入っているはず。それがされていないということは、まだネクタスが無事であるということに違いない、そう思いたかった。
だが、それならどこにいるというのだろう。一体、どこを探せばいいのだろう。
サルジェがそんなことを考えていた──その時。
前方から、三人の少女が歩いてくるのが見えた。甲高い声で笑いながら、お喋りに夢中になっている。その中央に立つ人物を見て、サルジェは息を呑んだ。
中央に立ち、楽しそうに話題を振りまいている存在。
それは、まさしく「ティナ」だった。
ティナは2年前よりさらに成長し、サルジェの想像通り美しくなっていた。当時の無邪気さはまったく消え失せ、手振りや話ぶりも、女性そのものである。豊かな胸を歩くたびに揺らせながら瞳を輝かせ、今の幸福を全身で享受しているかのようだった。ふと、脇に立つ少女がティナに向かって尋ねた。
「そういえば、このあいだジョセフからラブレターもらったんでしょ? あれ、どうなったの?」
「ラブレター? ──ああ、『デートの申し込み』ね」
それを聞いた瞬間、両脇の少女が悲鳴のような甲高い声をあげた。そんな少女達の姿を、不安げな表情でサルジェは見つめる。
「それでどうしたの? デートしたの? やだ、すごいじゃない!」
友の絶賛に反し、ティナは顔を顰めて溜息をつくと手をひらひら振って否定した。
「だめだめ! ジョセフ程、見かけ倒しの男はいないわ! 実際一緒にいると、退屈で仕方ないったらありゃしない。あんな男なら、堅物のお父様と一緒にいた方がまだマシだっていうぐらいよ」
「まったく贅沢ねぇ! ジョセフとデートしたい女の子は、いっぱいいるのに」
「だったらみんな、ジョセフとデートしてみればいいわ。2時間だって保ちやしないから。それより──私はローゼン先生が気になるンだけど! 12歳の頃からずっと、先生のことばかり考えているもの。私、先生と結婚したいなぁ」
そう言って頬を染める。
「確かにローゼン先生はいい男だし紳士だけど、一緒に暮らしていた子はどうするの?」
一緒に暮らしていた子。
サルジェは「自分のことを話している」とすぐに気が付いた。
咄嗟にサルジェは壁に身を隠した。何故なら今、ここでティナの本音が聞けるのだ。こんな機会はそうそうない。
この2年間、サルジェは片時もティナを忘れたことはなかった。ティナが望むなら、ティナと一緒にヒューマノイドタウンに降りてもいい、そう思っていた。自分のオリジナルであるシリアと生き写しのティナ。思えば、彼女に「恋をしていた」のかもしれない。しかし───。
「サルジェのこと? ──もういいのよ、彼のことは。一緒に暮らしていた時には彼のこと好きだったけど、今にして思えば、ただの兄妹愛に近い感じだわ。それに、いつまで経っても成長しなかったしね。私より背が小さい男なんてごめんだわ」
はっきりと言い放った。
「だけど、アカデミーの研究員でしょ? 一生、贅沢な暮らしが出来るわよ」
「アカデミーの研究員なんて、お父様で懲り懲りよ。『使命』だの『役目』だのばかり言って、女の幸せなんかこれっぽっちも考える余裕がないンだもの。私、お母様の話って全く聞いたことないけど、きっとお父様のことを『捨てた』ンだと思うわ。私は普通の職業でいいから、『私を大切にしてくれる男性』と結婚したいの」
「だったらローゼン先生はお薦めね。それに、先生もティナに気があると思うわよ。先生、ティナのことは特別扱いしてるじゃない?」
友人の囁きに、ティナは「きゃっ」と声をあげた。
「やっぱりそう思う? 実は私、先生の家に遊びに来ないかって誘われているの。だから、思い切って行っちゃおうかと思って!」
「あら! そんなの、あなたのお父様が許さないンじゃない?」
「いいのいいの! この2年間私を放ったらかしていた男なんか、お父様とは呼べないわ。それに、お父様は私に甘いもの。万が一許してくれないなら、『先生と駆け落ちするわよ!』ぐらいに言って脅せば、すぐにコロッと態度を豹変させるわよ。それをいいことに、私は先生の元に転がり込んで一緒に暮らすとするわ」
その言葉に、少女達は一斉に甲高い悲鳴にも近い声をあげた。
物陰から見ていたサルジェは、目の前の光景に衝撃を受けていた。そこにいたティナは自分の知っているティナではなく、「道端にいる全く知らない女性」のように感じてしまった。
サルジェはすっかり気後れし、ティナに声をかけることが出来なくなってしまった。壁脇に立つサルジェに気づくことなく、ティナはそのまま通過していく。
この2年間、ずっと思い焦がれ続けたティナ。手を伸ばせば、すぐに掴める距離にいるのに──サルジェとティナの心の距離は、エデンとインフェルン大陸よりも離れてしまっている。思い続けた人の横顔と後ろ姿をただ見つめる以外、サルジェに出来ることは残されていなかった。
何だか、すべてに裏切られたような気がした。
自分が信じていたものは、愛していたものは、本当に自分を愛してくれていたのだろうか?
今となっては、そんな猜疑心まで頭をもたげてしまう。
サルジェは行く宛もなく、ただ街を彷徨い続けた。
もう太陽も地平線近くに沈み、空は茜色に染められている。展望台から見つめると、ほぼ同じ高さにあるレドラの建物が小さく見えた。巻貝のような不思議な建物。レドラは最も美しいヒューマノイドタウンと言われているところでもあった。
いつか、ティナと一緒に行きたかった──。
でも、それはもはや遠い夢となってしまった。サルジェは大きく輝く夕陽を見つめ、そばにあったベンチに腰を掛けた。
これほどまでの孤独感を、今まで味わったことがなかった。
ネクタスの愛も、ティナの思いも、そして、3年間過ごした幸福の日々も──すべてが虚ろな夢の如く、遠ざかっていくかのようだった。
サルジェは、自分がネクタスやティナ達に支えられていたのを痛感していた。しかし、それさえも実際の支えではなく、自分が勝手に思い描いた理想でしかなかったのかもしれない。2年経っても未だに連絡さえしてくれないネクタスは、もしかしたらサルジェのことを「いい厄介払い」としか思っていないのかもしれない。ネクタスの家にサルジェを踏み入れさせないようアンドロイドに伝えてあったのも、サルジェが邪魔者でしかないからかもしれない。ティナの本心が、決してサルジェを良く思っていなかったのと同じように。
もう、何を信じていいのかも分からなかった。
何が現実なのかも、よく分からない。
ただ分かるのは──今、自分が抱いているこの「引き裂かれそうな程の胸の痛み」だけだった。
瞳に涙が溢れ、頬を伝う。
涙でぼやける夕陽を、サルジェはいつまでも見つめ続けていた。
* * *
サルジェがネクタスの自宅に向かって車を走らせていたのと同じ時間帯。
ネクタスは、アカデミーでサルジェのことを探していた。研究室にサルジェの姿が見当たらなかった為、寮に足を向けようとした──その時。
「ネクタス。貴様、いつの間に帰っていたのだ?」
背後から声がした。振り返ると、視線の先にグローレンが立っている。
「今しがただ。サルジェはどこにいる?」
その問いに、グローレンは意味ありげな笑みを浮かべた。
「『今しがた』、貴様のことを探しにアカデミーを出たばかりだ」
「なに?」
「事務員に、貴様の行方を確認していたという情報が入っている。その後、貴様の家に向かったそうだぞ」
「お前は、サルジェに『追跡装置』をつけたのか!」
「人聞き悪いことを言うな。クリティカンには、全員つけている。サルジェだけ特別扱いなどしていない。貴様とは違うからな」
万が一サルジェに追跡装置をつけられた場合のことを考え、ネクタスの自宅には入れないように手はずは組んである。おそらく、サルジェを深く傷つけることにはなるだろうが──しかし、ネクタスの家に入れないことで、サルジェの安全は守られる、ネクタスはそう考えていた。
しかし、「もう少し早く、彼に連絡を取るべきだった」と、後悔の念に襲われた。
「それよりネクタス。この3週間、どこに行っていたのだ」
「白々しい質問をするな。サルジェに追跡装置をつけるような奴なら、私の行動などお見通しだろう」
ネクタスの嫌味に、グローレンは鼻先で笑った。
「そういう貴様こそ、何度か妨害して来ただろうが。こちらの情報は、イルサットまでの記録しかない」
赤い砂の街の記録は残っていないことを知り、ネクタスは心の中で安堵の溜息をついた。
「それが正確だ。イルサットからはほぼ直通だったからな」
ネクタスの言葉を鵜呑みに出来ない表情で見下ろすと、グローレンはほくそ笑んだ。
「そうそう。ひとつ、いい情報があるぞ」
グローレンがそう言う時は、必ず腹に一物ある時だ。ネクタスは用心深く尋ねた。
「何だ」
「先日、スウェルデンに元アーシアンが指揮をとるアジトがあるという情報を受け、アンゲロイが出動した。キルデというリーダーは自爆死したが、幸運にも『さらなる大物』を捕らえることが出来たぞ。──誰だと思う?」
スウェルデン……。確か、イルサットのアジトでその名を聞いた。
ネクタスは自分の直観が外れることを、心の底から祈った。しかし、その願いは天に届かなかったようだ。
「『ジョリス』だ。ヤツを捕らえることが出来、昨日、エデンに到着した。これからたっぷり、レジスタンスの情報を聞き出すとしよう」
目の前が急激に暗くなった。遠のきそうな意識を、必死に紡ごうとする。冷静を保とうとするが、ネクタスの動揺をグローレンに見抜かれていた。
「ずいぶんとショックを受けているようだな、ネクタス。ジョリスが捕まれば、レジスタンスはほぼ無力化したも同然だ。ヴァルセルの悪足掻きも、ジョリスの逮捕をもって幕を閉じた。いずれ貴様も、逮捕されることになるだろう。それまでは、残された自由を堪能することだな」
そう言うと、グローレンはネクタスに背を向けた。
ジョリスが逮捕されたという情報を受け、ネクタスは半ばすべてを諦めかけていた。レジスタンスは、確かにこのままでは存続が難しい。ヒューマノイドだけでエデンに立ち向かうことは、到底不可能だ。ジョリスや数人のアーシアンがいることで、かろうじてレジスタンスの勝利はパーセンテージが上がっていた。しかしそれも断たれたとなると、ほぼ望みも断たれたのと同然だった。
しかし、それでも──。それでも、「サルジェの命」だけは守りたい。
ネクタスは、オタワの研究所にいながらにして、サルジェのクローン計画が始動していることを調査していた。そして、グローレンが研究のトップに立つ「セイラム」の育成計画がスタートしていることを知ったのだ。
それから2年。セイラムの計画が頓挫したという情報はない。間違いなく、クローン計画は順調に進んでいるのだろう。だとしたら、このままでいればサルジェは確実に殺されてしまう。せめて、それだけでも止めたい。それが出来ないのであれば、サルジェをエデンから逃亡させ、安全な場所に匿(かくま)いたい。
しかし、そんな場所──果たしてあるのだろうか?
──スレイド。彼に、サルジェを委ねるしかない。
ヴァルセルの息子であるなら、きっとヴァルセルと同じ人情が宿っているはずだ。そうネクタスは信じていた。スレイドの過ごした子供時代があまりに苛酷すぎて、それが理由で世の中を斜に見るようになってしまっていたとしても、それでも、サルジェを目の前にしたら情が動いてくれるのではないか、そう期待している。
そこから先は──サルジェの「運」を信じるしかない。
そう考えた、その時。
「失礼ですが──ネクタス教官では?」
呼び止められ、ネクタスは振り向いた。振り向いた先には、アカデミーの制服を着た青年が立っていた。女性のようにしなやかな体つきをした端麗な顔立ちの青年を見つめ、ネクタスは怪訝そうに眉間を寄せた。
「君は?」
青年は深々と会釈をした。
「シオンと言います。物理工学科の研究生です」
「──シオン?」
聞き覚えのある名前に、ネクタスの表情が固まった。
「まさか……じゃぁ、君がジョリスの──?」
シオンは唇に指を宛て、声を落とすようにネクタスに合図した。
「はい、仲間です。この区域の監視装置は私が操作しているので安全ですが、周りに悟られないように手短に話します」
声を潜め、シオンがそう言った。
「すでにご存じと思いますが、ジョリスが逮捕されました」
ネクタスは無言で頷いた。
「私は今から、彼の救出の準備を始めていきます。教官は、サルジェを救出したいのですよね? それでしたら、私の移動用ポートをお使い下さい」
「君の? 移動用ポートは、決められた場所以外にないはずでは……」
「現在、レジスタンスの侵入を阻止するためにポートは不定期に移動させられていますが、私は座標軸と周波数から一時的にポートを別の場所に作ることが出来るのです。しかし、逆探知をされないようにポートを開いておける時間は5分以内でなければなりません。私が教官とサルジェの移動用ポートを作成しておきますので、指定時間の5分前までに必ずその場所に来てください」
「──分かった。何時に、何処へ向かえばいい?」
「明日の晩の深夜0時に、β研究棟の管理システムが入れ替わります。このシステムの移行期には移動用ポートの出現が察知されにくくなります。その時を狙いますので、必ずその時間にβ棟の地下14階、D研究室に来てください。この機会を逃したら、次の機会はあと数日待たねばならなくなります。絶対にその時までに、指定された場所にサルジェと──そして、お嬢さんも連れて一緒に来て下さい」
ティナを連れて──。
その意味が、ネクタスにはよく分かっていた。もはやアカデミーはおろか、エデンにさえ自分とティナの居場所はないのだということを。
「……分かった、必ず行く」
ネクタスがそう言うと、シオンは微笑を浮かべて頷いた。
「ジョリスのことは、心配しないで下さい。私が必ず、助け出します」
力強く断言すると、足早にシオンはその場を去った。
* * *
深夜の帳(とばり)がエデンを包み込み、大きな白銀の月が天高く昇った頃。サルジェはようやく、アカデミーの寮についた。こんなに遅くまで出歩いたのは、初めてかもしれない。しかし、自分がどこを歩きどうやってここまで来たのか、全く覚えていなかった。
飲まず食わずで歩き続け、気力も底をついていた。歩きすぎてサルジェの細い足は浮腫み、窮屈な靴を今にも脱ぎ捨てたい衝動に駆られる。だが、このまま寮の寝床についたところで、心安らぐ眠りにつくことは出来まい。この2年間寝る前に必ず思いを馳せたネクタス家での暮らしは、今となっては幻想となって消えかかっているのだから。
もう自分は、どうなっても構わない。
どうせ自分は、死ぬのだから。
もうすぐ、セイラムが装置から誕生する。その前に、サルジェは暗殺されることだろう。それなら、もう何にも抗うことなく、静かに死を迎えたい──そんなふうに思う。
サルジェの「生きる意味」を探す気力はすっかり消え去り、「この世を去りたい」そんな思いに駆られていた──その時だった。
「──ずいぶんと夜更かしだな。優等生がこんな時間まで夜遊びとは」
顔をあげると、視線の先にドルケンが立っている。
だが、ドルケンがサルジェを見下ろす目は、どことなく淋しげだった。いつも彼が見せる競争心は全く失せ、気力にも欠けていた。その上、脇にはトランクを置いている。まるで、今からどこかに旅立つかのようだった。
「……あなたこそ、こんな時間にここで何を」
壁にもたれかかり、サルジェがドルケンに問うた。ドルケンは答えを探しているかのようにしばらく無言だったか、やがてこう呟いた。
「──ここを出て行く」
「……え?」
「グローレンに追い出されたんだ。また落第したから、もう僕の居場所はアカデミーにないって言われて──」
消えてしまいそうな程か細い声で、ドルケンがそう言った。
「……そうだったんですか。それは──お気の毒に……」
サルジェがそう言った、次の瞬間。ドルケンの怒りが、いっきに湧き上がった。勢いよくサルジェに掴みかかる。
「お前のせいだ! お前が、僕に課題を貸してくれなかったから──だから僕は、アカデミーを追放されるんだ! この後僕にある仕事は、量産型クローンがするような労働者の仕事ぐらいしか残されていない。僕の将来と人生を、お前がすべてぶち壊したんだ!」
そう叫ぶと、サルジェの襟元を締め上げる。しかし、サルジェは抵抗しなかった。虚ろな瞳で、ドルケンを見つめ返すのみだ。あまりに抵抗しないサルジェに、ドルケンも眉間を寄せる。
「何故だ。どうして、抵抗しない──」
「もう、いいんです……」
サルジェは力なく呟いた。翡翠色の瞳には悲しみだけが浮かび、サルジェの生命力を欠片も映し出していなかった。
「もう、私はどうなったっていいんです。好きにしてください」
その言葉に、ドルケンの目が怒りで見開かれた。サルジェの頬を思い切り殴る。為すすべ無く床に横たわるサルジェに馬乗りになると、細い首を両手で絞めた。
「だったら、お前の望み通り殺してやるさ! アカデミーを追放されたら、どこにも生きる場所はない。それなら、お前を道連れにして僕も死んでやる!」
そう言うと、首を絞める手に力を籠めた。
サルジェは全く抵抗しなかった。ドルケンの怒りを、ただそのまま受け入れている。ドルケンの力が籠められる度に息が詰まり、サルジェの顔が紅潮した。目を細め、苦しそうに声を漏らす。
その表情を見て、ドルケンは手を緩めた。彼の中でこの5年間ずっと抱き続けていたサルジェへの欲情が、再び頭をもたげたからだ。サルジェの目を見据えたまま、首を締めていた手を緩める。しかしその手を襟元から離さないまま、いっきに制服を引き裂いた。引き裂かれた制服の間から、サルジェの白い肌が覗く。
心臓の鼓動が早まり、全身を急激に血が廻る感触を覚えた。何ひとつ抵抗しないサルジェをいいことに、彼を性欲の捌け口にしようとしたのだ。
しかし、ドルケンはそこから先どうすればいいのかが、全く分からなかった。自分の奥底に蠢く性への欲情は感じられても、それをどう発散していいのか、このアカデミーで教えてくれる存在が皆無だったからだ。遺伝子操作により子孫繁栄がなされるこのエデンでは、性的な欲求そのものが軽んじられていたのだ。だからこそドルケンは、普通の人間が感じるであろう衝動をどのように昇華すればよいのか分からなかった。そしてサルジェもまた、自分の肉体が他者の欲情の餌食になるという危険性を理解していなかった。自分の無抵抗がさらにドルケンの精神を追い詰めていることに、全く気づいていなかったのだ。
肌を顕わにしたまま、まるで人形のように横たわるサルジェを前にして、ドルケンは手を止めた。荒く呼吸を繰り返しながら、低く呻く。
「──どうしてなんだ。以前のお前だったら、僕に抵抗したはずだ。一体何で、今日はこんなに無抵抗なんだ」
その言い方は、どことなくサルジェへの失望感を漂わせていた。
「お前は周囲から優等生と評価され、今だって優秀な研究員として敬われている。誰もがお前のことを噂しては誉め讃えるのに、何でお前はそんなに『生きることに無気力』なんだ」
「……もう──もう、信じられるものが何もないからです」
虚空を見つめたまま、サルジェはそう答えた。
「私も、あなたと同じです。……いえ、もっと酷いかもしれない。ここ数日のうちに、私は殺されるでしょう。だからあなたに今殺されたとしても、同じことなのです。相手が見知らぬ誰かか、或いは、あなたかという違いだけで」
サルジェを掴むドルケンの手が、僅かに緩んだ。ただじっと、サルジェを見下ろす。サルジェはようやく、ドルケンと視線を合わせた。
「それなら──私は、あなたの手にかけられて死んだ方がいい。課題に協力出来なかったことについては、心からお詫びします。でも私にはどうしても、自分の都合で生命をデザインすることが出来なかったのです。そのせいで、あなたがアカデミーを追放されるのであれば──その責任は、私にもあります。あなたの怒り、悲しみ、苦悩をすべて私が引き受けてあなたの代わりに死ねるのであれば──この命、惜しくはありません」
ドルケンの目が大きく見開かれた。
その言葉は、ドルケンが生きてきた中で初めて向けられた「愛のある言葉」だったからだ。
ここまで自分のことを思ってくれた人間が、他にいただろうか。グローレンはいつも怒鳴るばかりで、優しい思い遣りの言葉さえ発したことはない。周囲の仲間だって、誰ひとり自分を思いやってはくれなかった。
目の前にいるサルジェ──彼を除いては。
思えばサルジェは、5年前にも自分を助けてくれた。グローレンの呼び出しを忘れて研究室でサルジェと話し込んでいた時、サルジェはグローレンに向かいドルケンの潔白を証明しようとしてくれた。「自分のせいだ」とまで言ってくれた。
ドルケンの心の中に、いっきに暖かな風が吹き込んできたかのようだった。その風は、凍り付いたドルケンの心臓と血液をいっきに溶かした。温もりを取り戻した心臓が、瞳さえも潤す。涙が溢れそうになり、ドルケンはそれを堪えようとして目を見開いた。
サルジェは、自分を襲ったドルケンをも受容してくれたのだ。ドルケンは我に返り、自分がサルジェにしようとしていたことに気がついた。たじろぐようにして身を引くとその場で立ち上がり、踵を返すとトランクを手にして走り出した。それはまるで、自分が犯した罪から逃れようとしているかのようだった。
ドルケンが去った後、サルジェはゆっくり体を起こした。脱がされた服を纏い、打撲した腰と後頭部に手を宛てながらゆっくり立ち上がった。まだ目眩はするが、それは今日のショッキングな出来事が理由なのか、歩きすぎが理由なのか、もしくは襲われたことが原因なのかも分からない状態だった。
もう、何も考えられない。サルジェは思考を凍結させるかのよう停止させ、そのまま寮に向かって歩き出した。
今は深夜1時半。監視装置も最小限に切り替わる時間で、その分、外部からの侵入者予防として衛兵が待機する。サルジェは自室のある寮に向かう通路を、ただひとり歩いていた。
ふと、その時だ。
通路の照明が、突然暗転した。今まで明かりの中にいたサルジェは急な暗闇に目がなれず、その場で立ちつくした。
通路の奥から足音が近づいてくる。低く一定の感覚をもって響く靴音に、サルジェの背筋に悪寒が走った。
「そ、そこにいるのは誰です!」
恐怖で声が震える。しかし、闇から答えはなかった。
サルジェはその場で立ちすくんだまま、覚悟を決めた。突如暗闇となった通路。近づいてくる人物。
──間違いない。暗殺者だ。
ついにこの時が来た、サルジェはそう確信した。
アカデミー内で殺人がある場合、誰にも知られないように行われることが多い。サルジェのオリジナルであるシリアが、そうされたように。
シリアがどこに葬られたのか、どの記録にも残されていなかった。自分も同じように、どことも分からない場所に遺体を放置されるのだ──サルジェはそう思った。
靴音はもう目前まで来ている。あと数歩で、サルジェの肩をも掴める距離になるだろう。
サルジェは覚悟を決め、固く瞼を閉じた。どのような命の奪われ方であっても、出来るだけ苦しみたくはない──そう願う。死への旅立ちが一瞬で済むことを、心底願った。
靴音が目の前で止まる。相手の息づかいが、まるで耳元で囁かれているかのようにはっきり聞こえる。サルジェが小さく身をかがめた、その時。
ガシッと、サルジェの両肩を力強く掴んできた。あまりの強さに、サルジェは小さく声をあげてしまった。
だが、しばらくしてこの手の感触に覚えがあることを思い出す。そうだ。いつもこんなふうに、自分の肩を掴んでくれる存在がいた──。
そのことを思い出すより早く、サルジェは目の前の人物を確認したくて目を開けていた。
目の前にいたのは──見紛うことなき、あのネクタスだ。探し求めていた相手との再会に、サルジェの涙腺はいっきに緩んだ。
「先生! 今まで、一体どこに──」
「サルジェ! あまり話している時間はない」
ネクタスは早口で言葉を続けた。
「君にひとつだけお願いがある。今晩0時、β棟の地下14階、D研究室に必ず来て欲しい。君の命を守るためだ!」
突然の言葉に、サルジェは反応出来ないまま口を開けていた。
「君もすでに分かっているだろう。君のクローン計画が進行しており、もうすぐセイラムが誕生してしまう。君が殺される前に、君が自由に生きられる道を私は提示したい。だから、いいね。今夜0時、遅れることなく、そして早すぎることなく、時間通りに来るんだ」
「で、でも……先生は──」
「私もその場で君を待つ。だから、何も心配ない」
「だけど、私はそこから先、一体何を──」
「すまんが、質問に答えるだけの時間がない。だが、君の問いの答えはほとんどこの『メッセージ』で答えられるようにしておいた。誰にも見られない場所で、このメッセージを開くといい。そこで答えを探すといい」
そう言って、ネクタスはサルジェに小さなメモリーカードを渡した。カードを見つめるサルジェに再度、ネクタスは囁いた。
「いいね、絶対に忘れるんじゃない。今夜0時、β棟の地下14階、D研究室だ。必ず来るんだよ」
「わ……分かりました」
サルジェは小さく頷いた。ネクタスは周囲を見回し、安全なことを確認してからこう耳打ちした。
「それから、服を脱げ」
「えっ!」
愕然として動けないサルジェに対し、ネクタスは再度促した。
「服を脱いで、私に肩を見せるんだ。時間がない、急ぎなさい」
ネクタスが何を言っているのか理解出来なかったが、サルジェは服を脱ぎ、背中をネクタスに向けた。ネクタスが指先で肩の周辺を触っている。
「せ、先生。一体、何を……」
「あった!」
ネクタスはそう言うと、携帯していたレーザーメスを握りしめた。
「グローレンが君に『追跡装置』をつけた。それを外す。麻酔がないので痛むが、少し辛抱してくれ」
その言葉より早く、右肩にチリチリとした痛みが走った。背中に生暖かい液体が流れてくるのを感じる。ネクタスは手にしていた布で血をぬぐい、同時に傷口を抑えた。
「よし、これでいい。しばらく出血するから、その布で止血するまで抑えておきなさい。大きな傷ではないので、すぐに止血するはずだ。それから、このチップは明日君が寮を出るまでは持っていなさい。そして、このメッセージを読んでから捨てること。……いいね」
「分かりました」
サルジェがそう伝えると、ネクタスは安堵したように笑って同じように頷いた。そして、足早でその場を後にした。
サルジェはしばらくその場で立ちすくんだままだったが、警備員が来るリスクを思い出しすぐに寮へと帰った。ネクタスに外してもらった追跡装置と、メッセージカードを大事に握って足早に自室へと戻った。