第十二章 スレイド
エデンの裾野には、決してエデンに足を踏み入れることの出来ぬ者達の街が広がっている。エデンはギリシャ神話に出てくるオリュンポスのような高台にあり、その周囲を高い城壁で囲まれている。正確に言えばそれは城壁ではなく、人間を細胞の核から解かすという恐ろしい生物兵器だ。ひとたび足を踏み入れようものなら、たちまち肉体は蒸気と化して霧散してしまう。
エデンのすぐ下にはレドラという、ヒューマノイド達からすれば上流階層の人々が暮らしている。中にはエデンでの暮らしが嫌になり、身分を隠してレドラで暮らすアーシアンもいると聞く。レドラの住民はアーシアンと直接的なやりとりが出来る唯一のヒューマノイドという扱いのもと、エデンとの交流が許されている。そのため、レドラはエデン同様アーシアンの治安で守られているのだった。
一方、レドラからさらに下ると、そこから先は無法地帯とも言える地域だ。この大陸のほとんどは、そうした街で溢れている。
喧嘩、盗み、強奪、暴力、姦淫──
人類のあらゆる冒涜が詰め込まれたような、そんな街々である。それぞれの街には黒人、黄色人種、中には白人もいて、混ざり合い暮らしていた。
エデンから南西に何百キロも行ったところにある「赤い砂の街」は、最も治安の悪い地域で有名だ。ヒューマノイドさえ、立ち寄るのを避ける程だ。1日の間に訪れる旅人の半数はその日のうちに殺され、金になるものはすべて強奪されて遺体を放置される。そうされるのが嫌なら、赤い砂の街には一歩も足を踏み入れるなというのが、旅人達の鉄則だった。
そんな街にも、数少ない旅人向けの宿舎を経営している者もいる。「ホテル・ウェストサイド」が、そんな貴重な宿舎のひとつだ。
そのホテルの経営者はあろうことか若い女性だった。小麦色の肌に黒髪のその女性は、ルシカと呼ばれている。華奢な身体にそぐわない程の豊満な乳房が、男達の欲望をたびたび湧き上がらせていた。しかし、ルシカはそんなことにめげているような女々しい女ではない。
今日もルシカは、男達の視線を気にも止めずに洗いものをしていた。カウンターのそばに座っていた二人連れの男はニヤニヤと笑いながらずっとルシカを見ていたが、しばらくしてひとりの男が立ち上がった。
「たまんねぇ程、いい女だなぁ。泊まってやった礼として、一晩抱かせてくれよ」
そう言って、カウンター前からルシカの胸に手を伸ばす。ルシカは気丈にもその手を払いのけると、啖呵を切った。
「笑わせんじゃないよ! こっちは得体の知れないあんたらを泊めてやったんだ。礼はこっちがもらいたいね!」
そう言って、ぎろりと男を睨みつける。その目の鋭さに、男は一瞬たじろいだ。
「生意気言ってんじゃねぇぞ、このクソ女! こっちは二人なんだ、お前ごときの女、力一杯抵抗したってこっちのモンさ」
男の背後から、もうひとりの男も近づいた。自分よりも遙かに身体の大きい男を前にしても、ルシカの気の強さは衰えることがなかった。
「──それはこっちの台詞さ。あんた達なんか、すぐに殺されちゃうからね」
そう言うと腕組みをし、目を細めて笑う。
「何を巫山戯たこと言ってやがる。お前のような細っこい小娘にやられる俺達じゃねぇ!」
ルシカは高らかに笑った。
「馬鹿言ってンのはそっちさ。私が殺(や)るなんて、一言も『言ってない』よ」
ルシカの言葉に、男達が怪訝そうな顔をした──次の瞬間。
「ぐわぁ──っ」
フロア中に響き渡る程の悲鳴と共に、ひとりの男がテーブルになぎ倒されていた。
「な、何だ!」
振り返る隙を与えず、シュンッ……と空気を引き裂く音と共に衝撃が走り、壁に激突する。
何が起きたのかまったく分からなかった男達の前に立ちはだかる、ひとりの影があった。
そこに立っていたのは、血のような色をした髪の青年だった。そして、髪とは対称的な程に深い緑色の瞳は、鋭く男を睨み据えている。
「な、何者だ、こいつ……」
圧倒的な力で殴り倒された男がそう呟いた時、もうひとりの男が絶叫した。
「ま、まさかこいつ──『アズライール』……!」
「アズライール? じゃ、こ、こ、こいつが噂の『死の天使』!」
狼狽える男の前で、深紅の髪の青年はにやりと笑った。
「──『死の天使』だと? 巷では、俺のことをそんなふうに噂しているのか」
そう言いながら、男にじりじりと近づいていく。ルシカを襲った二人は、先程ルシカに見せた勢いなど消え失せ、ガタガタと震えだしていた。
「か、か、か、金ならやる! 金ならやるから、命だけは助けてくれ!」
「それは矛盾するな。さっき貴様は、俺を見て『死の天使』って言ったんだぜ。死の天使の仕事といえば、命乞えされようが何しようが、そいつの魂を奪うことが役目だからな」
青年は腰をかがめ、うずくまる男と視線を合わせた。真正面から見つめる青年に、すっかり男は戦意喪失していた。
「──ルシカにしたことに対する仕返しだ。たっぷり味わうんだな」
それから5分後。
ホテルの外には、ぐったりと項垂れる男二人が倒れていた。そんな二人を遠目に見ながら、ルシカは「まったく……」とため息混じりで呟く。
「──スレイド。あんた、派手にやったもんだねぇ。仕返しされたらどうする気だい」
ルシカの苦言にも、スレイドと呼ばれた青年はまったく堪えてない様子だ。カウンターに座り、ルシカの煎れた珈琲を飲む。
「あいつらの傷はすぐに回復しない。それに、あれだけされたら二度とここには立ち寄らないだろう。──それより最近どうしたんだ、ルシカ。すっかり女盗賊ルシカの名が廃れてるじゃないか。あんなごろつきに冷やかされるなんて、お前も落ちたもんだな」
そう言って鼻で笑う。ルシカは目をすがめてスレイドを見た。
「その名を口にすンじゃないの。もう捨てた過去なんだから! 今じゃすっかり堅気(かたぎ)だわよ」
頬を膨らませるルシカを見ながら、スレイドも笑った。
「それにさ、もう私には用心棒がいるんだから! 頼りにしてるわよ、『アズライールさん』」
そう言って、ルシカはウィンクして見せた。
「さっきも疑問に思ったんだが──その『アズライール』って何者なんだ」
「男が言ってたじゃない。死の天使……まぁ、死神みたいなものよ」
「ふん、死神……ね」
頬杖をついて、スレイドはそう呟いた。
「なぁに、スレイド。何か思うところでもあるの?」
「──別に。『悪くない』、そう思っただけさ」
そう答えた。
* * *
赤い砂の街。
一生涯の中で絶対に足を踏み入れることがないだろうと思った地に、ネクタスは降り立った。オタワから乗ってきた飛空艇を川沿いに止め、マントを深く被ると目の前に広がる街へと向かった。風が強く、そのたびに赤い砂が目に入る。
この街が赤い砂と称されるのは、文字通り砂漠が赤く見えるからだ。ここの砂の成分は酸化鉄で、それで赤く見えるのだと言われている。どことなく寂れた印象と、悲しげに見える風景だ。ヒューマノイドタウンの中でも貧しい街のうちのひとつに数えられるだろう。
ネクタスの足は、まっすぐにひとつの建物を目指していた。ジョリスから聞いたホテル・ウェストサイド。それは川近くの街道沿いに建っており、砂嵐を避けた煉瓦の壁の内側にあった。
「ホテル・ウェストサイド」と書かれた看板の下には「空室有」という札が出ている。そこを見つめた後、ネクタスは徐に足を踏み入れた。
扉を開けると、そこは昼間とは思えない程薄暗い空間だった。壁が砂の風と一緒に太陽の光も遮ってしまっていたからだ。古びたフロアの奥にはカウンター席があり、その奥には黒髪の若い女性と、向かい側にもう一人座っていた。
──茶……? いや違う、赤、紅色か。血のような色の変わった色だ。
ネクタスがそう考えるとほぼ同時に、奥の女性がネクタスに気がついた。
「いらっしゃい。宿を希望? それとも食事?」
「『両方』だ。ちなみに……珈琲をきらしていたりしないだろうね?」
ネクタスはイルサットのカフェテラスを思い返して尋ねた。女性はプッと吹き出し、笑って手を振る。
「いやだ、やめてよ! ホテルが珈琲きらしたりしたら、経営出来ないじゃない。冗談きついわ」
その返答に、ネクタスは幾分ホッとした。
──良かった、ここのヒューマノイドは攻撃的ではない。レジスタンスのアジトがない場所でネクタスは丸腰状態のため、用心するに越したことはなかった。
「お客さん、どこから来たの?」
女性が珈琲を煎れながら尋ねてきた。ネクタスがアーシアンであることに気づいてない様子だ。
「イルサットだ。その前は、オタワにいた」
「へぇー! どっちも、ヒューマノイドにしたら楽園みたいなところね。それなのに、どうしてこんな辺鄙(へんぴ)な街に?」
「人を、探しているんだ」
「──人?」
女性が首を傾げた。
「ここはとっても小さな街よ。だから、すぐに探し人が見つかると思うわ。ちなみに、何ていう名前の人なの?」
「『スレイド』という名の青年だが──聞いたことはないか?」
その瞬間、目の前の女性の表情が固まった。瞬時に、向かい側に座る人物に目を向ける。
それと同時に、ずっとネクタスに背を向けていた人物が振り返った。その人物の顔を見た瞬間、ネクタスの目が見開かれた。
そこにいたのは、ヴァルセルと瓜二つの青年だった。鼻筋の通った整った顔立ち、鋭い光を放つ深緑色の瞳。
しかし、髪の色はまったく異なっていた。
「──君! その髪の色は、一体どうしたんだ!」
突如髪の色を聞かれ、スレイドは怪訝そうに眉間を寄せた。
「……生まれつきだ。それがどうした」
「そんなはずはない。アーシアンが金髪以外に生まれるということは、絶対にあり得ない!」
しかし自分の直観は、目の前の青年がヴァルセルの息子であることを確信していた。髪の色はともかく、顔は若い頃のヴァルセルにそっくりだからだ。
一方、スレイドの中では疑問と同時に警戒心が強くなっていた。屈託なく話しかけていた女性も身を引いている。
「──じゃぁ、あなたは『アーシアン』なの?」
その問いに答えるかのようにして、ネクタスは頭から被っていたローブを外し、顔を表に出した。
「私はアーシアンだ。2年前までアカデミーの教官をしていた。そこにいるスレイドと話をしたくて、ここまで来た」
「俺はアーシアンに知り合いなんかいない。人違いだ」
スレイドはまったく動じることなく、そう言い放った。
「いいや、君は間違いなく私が探している人物だ。私は、君のお父さんをよく知っている」
「俺の親父? ──親父は、俺が生まれてすぐに死んだと聞かされている。母親も同じ頃に死んだ。その後は、スウェズランドにいる神父に預けられた」
「それは、セヴァイツァー神父だろう?」
父代わりの存在の名をすぐに示され、スレイドの表情が変わった。
「神父を知っているのか?」
「セヴァイツァー神父は、私と君のお父さんの恩師にあたる人だ。君を預かった時、もうすでに90代の高齢だったはずだ。神父は、今どちらに?」
その問いに、スレイドの表情は陰った。その表情から、スレイドがどれほどセヴァイツァーを慕っていたかが汲み取れた。
「──死んだ。俺が10歳の時だ。アーシアンに……殺された」
「アーシアンに? 衛兵の制服を着ていた人物か?」
掘り下げようとするネクタスを、スレイドは睨みつけた。
「そんなこと、貴様に関係ない。それより、俺に何の用だ」
「実は……ある人物を匿(かくま)って欲しいんだ」
「ある人物?」
ネクタスは徐に頷いた。
「『サルジェ』という名の少年だ。君と同い年、同じ日に生まれたクリティカンだ。君にとっては、双子の魂にもあたるだろう。……だが、見た目は彼の方が遙かに幼く、15歳とは思えないかもしれない。まだ10歳前後の子供に見えるだろうから、すぐに分かると思う」
「何でそいつを匿わなくちゃならない?」
当然の疑問だが、説明すれば長くなる。ネクタスはひとつ溜息をついてから、語り出した。
「君はアーシアンと人類にまつわる『ある計画』を元に、父であるヴァルセルが産み残した存在だ。君の父親は、いずれ『サルジェと名付けられた革命家』が生まれることを想定し、君を遺伝子操作した後、ヒューマノイドの女性の子宮で育てたのだ。君が産まれた日に彼は処刑されたので、その後は神父が育てたと聞いている。だから君はヒューマノイドではなく、アズライールを祖にもつ元老院ヴァルセルの跡継ぎで、正真正銘『アーシアン』なのだ」
スレイドはしばらくの間、ネクタスの話を真剣に聞いていた。
しかし、話を聞き終わると口元で笑い、小さく「……巫山戯(ふざけ)るな」と呟いた。
「──ずいぶんと都合のいいご託ばかり並べたもんだな。後に産まれる革命家のために、俺を産んだだと? 本当のことかどうかも分からないが、仮にそうなら、俺は親父を殴り倒してやりたいぐらいだ」
スレイドの激しくも静かな怒りが、辺りの空気に浸透していった。
「これだからアーシアンは嫌いなんだ! 人の生命を、まるで『所有物』のように扱う。俺は『俺のために』産まれてきたんであって、親父のためでも、サルジェというヤツのためでも、ましてやアーシアンのためでもない!」
そう言うと、スレイドは勢いよく立ち上がった。
「すぐにここから出て行け! 俺は貴様等に協力する気など、毛頭無い!」
「ま、待ってくれ! ──君の怒りはもっともだ。その怒りは、すべてこの私が引き受けよう。でも、せめてサルジェのことだけは助けてあげてくれないか! 彼は今、エデンで命の危機にさらされているんだ!」
「そいつが死のうが何しようが、俺の知ったことか!」
スレイドはネクタスの襟首を掴み、引きずるようにドアへと連れて行った。奥から「ちょっとスレイド! 乱暴しないで!」と女性が叫んでいるが、スレイドは聞く耳を持とうとしない。そのまま扉を開け、ネクタスを突き飛ばした。ネクタスの身体が、赤く積もった砂の中に埋もれる。スレイドが扉を閉めようとした──その時。ネクタスは全身全霊込めて懇願した。
「た、頼む! サルジェは、この数日のうちにここに来るだろう! 私達の計画に協力しなくていい。レジスタンスに関わらなくてもいいから、『彼の命だけは、守ってやってくれ』!」
「──そういう願いなら、本物の死神に頼むんだな」
吐き捨てると、扉を勢いよく閉めた。