第十章 明かされた真実
サルジェがアカデミーの研究員になってから、2年の歳月が流れた。サルジェは15歳となり、いまやアカデミーの学生や研究生に指導をする立場にまでなっていた。
サルジェは依然として、自分の記憶が戻らないことに焦(じ)れていた。だが次第に、「記憶が戻らないということ『こそ』に、意味があるのではないか」そう思うようになっていった。取るに足らない記憶であれば容易に取り戻すことも出来るだろうし、思い出せないことにここまで苛立ちは募らないはず。決して忘れてはいけない記憶を思い出せないからこそ、自分はここまで記憶に執着するのではないだろうか──そう思うようになったのである。
自分の存在意義と、「何が封印されていて、何を思い出さなければならないのか」を知る為に、サルジェは2年前から「ナノロボット」の開発に力を注いでいた。ナノロボットとは、マイクロよりも小さな単位である「10(マイナス9乗)」の大きさをした「細胞修復機能を持った装置」だ。破壊された脳の神経細胞のみを標的にするので、血液中から投与しても害はない。生理食塩水に含んだナノロボットを、静脈から投与し続ける。投与を初めて3日程の間はさして大きな変化はなかったが、少しずつ手応えが現れてきた。ブロックされた脳神経細胞を再度修復させることにより、サルジェの脳裏には「今、目の前で体験している」かのように、記憶が再現されてきたのだ。その中でも封印されることなく手前にあった記憶が、徐々に甦ってきた。
見えたのは──澄んだ青空と、白い砂浜。
打ち寄せる波に、沈む夕陽。
風にさざめく草原や、広大な砂漠、そこに生きる生命。
太陽が地平線に沈み、月が昇ると、周囲は満天に散りばめられた星々の舞台となる。そんな自然の移り変わりを、サルジェはまるでその場にいるかのように思い出していた。
──これは、どういう記憶なのだろう。
サルジェは疑問に思った。クリティカンとして産まれた自分は、ネクタスの家で目覚めるまでずっと育成装置の中にいたはずだ。このような自然を見る機会など、与えられていなかったはずなのに。
そう思った、次の瞬間。
サルジェの目の前に、優しい微笑みを浮かべた女性が立っていた。翡翠色の瞳に、サラサラとした金髪の女性。思えばこの女性の夢を繰り返し見ていたこともあった。これほどまでに影響を及ぼすとは、やはり自分に何か深い繋がりがあるのだ──そう思った、次の瞬間。
女性の背後に、男性が立ったことに気づいた。それは、サルジェにとって恩人であり恩師でもあるネクタスだった。
──先生? この女性と先生は、研究仲間だったのか。
まるで両親のような、優しい二人。サルジェは、この二人の愛に包まれながら装置の中で成長していたことを思い出した。サルジェの中に、喜びと愛おしさが芽生えようとした──次の瞬間。
目の前が真っ赤に染められた。
この5年間、何度も繰り返し夢として現れた記憶。優しかった女性研究員が、銃殺される場面だ。脳裏に復元されようとした瞬間──それをサルジェの心が「拒否」した。
突如、激しい嘔気に襲われた。トイレに駆け込み、胃の中のものをすべて吐き出した。吐いた後しばらくしても、嘔気は治まらなかった。この急激な吐き気は、無理に脳神経を刺激した反動だということをサルジェはよく分かっていた。その場で床にしゃがみこみ、荒く呼吸を繰り返す。
「……これで、いい……」
独り言のように呟いた。
「これで……このままで行けば、記憶が全部元に戻る。しばらく……頑張れば……」
自分に言い聞かせるかのようにして、何度も繰り返し呟いた。
* * *
トイレから戻ると、研究室にはもう誰もいなくなっていた。薄暗い中でサルジェはひとり荷物をまとめ、寮に戻るため通路へと出た。ナノロボットによる脳細胞復元の影響か、足下がふらついている。動悸もひどく、頭も割れそうに痛い。「帰ったらすぐに寝よう」そう思いながら重い足取りで歩き続けていた──その時。
「やぁ、サルジェ」
背後から声がした。振り返ると、視線の先には見慣れた存在がいた。
「ドルケン……」
先日サルジェに対して敵意を向けていたとは思えない程、今は親しげな表情だった。否、親しげというのとは違う。どこか企みでもあるような──媚びるような目をしていた。
一方、ナノロボットによる影響で気分不快が続くサルジェは、ドルケンに対して笑顔で接することが出来ない。壁に手をつき肩で荒く呼吸をするサルジェに向かい、ドルケンは言った。
「何だその姿は。今にも死にそうなぐらいだな。グローレンのしごきはそんなにきついのか」
ドルケンが指導教官であるグローレンを呼び捨てにしたのは、この時が初めてだった。5年の歳月を経て、ドルケンの中にはグローレンへの憎悪が生まれたようだった。
「……放っておいてください」
力なくサルジェが呟いた。サルジェがそのまま通り過ぎようとした、その時。
「待てよ! 今日は、お前に『頼みたいこと』があって来たんだ」
サルジェはその場で足を止めた。
「頼みたい……こと?」
「来週、僕はアカデミー・サードにあがるための進級試験があるんだ。それで、課題を提出しなくちゃならない」
ドルケンが何を言おうとしているのかまったく分からず、サルジェはただ聞いていた。
「それでさ。お前が研究したDNAデザインの胚を、一個僕に『分けて欲しい』んだ。全部提出しているわけじゃなく、いくつかは廃棄処分にしているって聞いたことがある。その廃棄したヤツでいいんだよ。廃棄処分にした胚のデザインを、僕にくれないかな」
ドルケンが言おうとしていること。要約すれば「サルジェがDNAデザインした胚を、ドルケンの課題として提出したい」ということだった。ドルケンはアカデミー入学して5年経つ今でも、セカンドに在籍している。ドルケンにしてみれば切実な願いであることを、サルジェもよく分かっていた。
──しかし。
「ごめんなさい……。それは出来ません」
サルジェは断った。
「理由のひとつとして、私は自分がDNAデザインした胚を『ひとつも廃棄処分にしていない』のです。そのような、生命を無碍(むげ)に捨てるようなことしたくないので……それで私は、確実に誕生出来ると確証された胚しかデザインしないようにしています。なのですべて提出してしまっていて、私の手元にデザインはありません」
「な、ならさ! 今からでいいから、何か簡単にデザインしてよ! それを提出するから」
「すみませんが、そんなことは出来ません。──考えてもみてください。私達だって、同じクリティカンなんですよ? 一時の課題のためだけに簡単に生命がデザインされるという、そのクリティカンの身にもなってください」
サルジェは、何よりも「デザインされる側の生命」を重んじていた。決して、ドルケンに意地悪をしているわけではない。
しかし、自分のことしか考えていないドルケンにとっては、サルジェが「自分を拒否している」ようにしか思えなかった。苛立ち顕わに叫ぶ。
「お前はこの僕にさんざん恩がある癖に、それを忘れたのか!」
「忘れたわけではありません。でも、それとこれとは話が別です。私は、あなたの願いを拒否しているわけではないのです。……私だって、あなたの力になりたい。でも、だからといって『生命』を軽んじるような行為は──」
「うるさい!」
ドルケンはサルジェの頬を思い切り叩いた。叩かれた勢いで、サルジェは背中から壁に激突した。壁に打ち付けられた衝撃で膝を崩し、その場で蹲る。壁に手を宛て、姿勢を支えるので精一杯だ。そんなサルジェの様子に構うことなく、ドルケンはサルジェの両肩をぐいっと掴み、サルジェの背部を壁に押しつけた。
「お前は、僕のようなクリティカンの気持ちを考えたことがないんだ! クリティカンは人工的に造られている分、気に入らなければ消されてしまう。僕は、消されるか否かの瀬戸際にいるんだ! 僕の指導教官がネクタスだったら、きっとこんなふうにはならなかった! お前は優秀なんじゃなく、たまたまネクタスが指導教官でラッキーだっただけの話だ!」
そう言うと、サルジェの体をふたたび壁に叩きつけた。後頭部を強打し、サルジェは表情を歪めて呻いた。
「……ち、違います、ドルケン。あなたは、現実と向き合うことなく逃避しようとして、この泥沼にはまっているだけです。他にも、道はあるはずです……。もっと、違った方法が──」
「黙れ!」
そう叫ぶと、ドルケンはサルジェの制服を力一杯引き裂いた。研究員の制服、それはドルケンにとって憎むべきものでもあったからだ。
だが、引き裂かれた黒い制服の間から対照的な程白いサルジェの肌が顕れた瞬間、ドルケンは息を呑んだ。胸部を露出し、心臓のある左胸の辺りが僅かに動いているのを見た瞬間、今までには感じたことのない「言いようのない衝動」がドルケンを突き動かした。この場でサルジェを征服したいという欲求と、今まで憎み続けた存在をねじ伏せているという恍惚感。サルジェの制服をすべて剝ぎ取ってしまいたい、そんな衝動に駆られた──その時。
「やめて下さい!」
サルジェは瞬時にドルケンの手を払いのけた。まだナノロボットの副作用で、目眩がひどい。壁に手をついた状態で自分の身体を支える。今のサルジェには、ドルケンに暴行を受けても抗うだけの力は残っていなかった。しかし、ドルケンもサルジェに手を払いのけられて我に返ったのか、その場から走って立ち去った。サルジェはそのままずるずると床に倒れ込み、しばらくの間、起き上がることさえ出来なかった。
* * *
ナノロボットによる記憶の探索は、今日で1週間を迎えようとしている。それと同時に、サルジェはアカデミー中枢コンピューターに隠された「オリジナルの真実」に辿り着くことが出来た。
サルジェのオリジナル。
それは、やはり「あの女性」──ネクタスの後輩にあたる女性研究員シリア。サルジェの記憶にたびたび過ぎる女性こそが、サルジェのオリジナルだったのである。
シリアは元老院ラフィールを始祖にしていた。しかし、この記録ではそれ以上のことが書かれていない。シリアがどのような人物だったか、そしてどんな生き方をし、どんな経緯でアカデミーの研究員になったのかも書かれていない。だが、サルジェの記憶に残るシリアは、いつでも優しい笑顔を浮かべていた。様々な映像や絵本を見せては、サルジェの心に残る教育をしてくれた。花や昆虫達の小さな生命、そして、クリティカンやアーシアン、ヒューマノイドの差別なく生命を慈しむサルジェの性質は、シリアの情操教育による賜物なのかもしれない。
そんな優しかったシリアが何故処刑されたのか──その事実も記載はされていなかった。「研究室で死去」とだけ書かれている。その処刑にグローレンが関わっていたことは、もはや明白な事実となっていた。
もしかしたら自分の育成に関わることで、シリアはグローレンと対立していたのかもしれない──そう思う。一体何故、シリアがそこまでサルジェの育成に対して信念を抱いていたのか──そこまでは、知ることが出来なかった。
そんなある日のことだった。寝る前に投与したナノロボットが脳神経に影響を及ぼしたのか、サルジェは夢を見るように、かつての追体験をした。
それは2年前、グローレンの研究室で起きたことだった。
グローレンから呼び出されて訪室したサルジェだったが、そこにグローレンはおらず、赤く明滅する装置のみが置かれていた。装置から放出された催眠ガスでサルジェはそのまま意識を失ったが、その「失われた間の記憶」が再現されたのである。
その時、サルジェの全身は全く力が入らず、深い眠りに落ちているようだった。しかし意識は目覚めており、実験台の上で横たわっているのが分かった。背中にあたる硬くて冷たい感触が、これからサルジェの身に起きることを知らせてくれているかのようだ。
<始めろ>
虚ろな意識の向こう側で、グローレンの声がした。
誰かの手が、自分の身体に電極をつけていくのが分かる。頭部にはさらに細かく電極をつけられた。
<DNAの採取もしたか>
<はい。クローンの複製も可能です>
<よし。こいつのクローンを、α4区のD49研究室で極秘に造れ。その時、シリアが埋め込んだ情緒はすべて取り外してデザインするように。創造性を司る前頭葉の一部を弄っても構わん>
<しかし、それをしたら──ものすごく残虐な人格になる危険もありますよ>
<構うものか。『私に忠実』でさえあれば、それでいい>
目覚めた後、サルジェは再び激しく嘔吐した。今回は迷走神経の反射だけが原因ではない。グローレンのしていることに、心の底から虫酸(むしず)が走ったのだ。
グローレンは、「自分に忠実な、サルジェのクローン」を造ろうとしているのだ。
これ程までに酷い生命の冒涜を見たことがない──サルジェはそう思った。
同時に、「自分がどれほど、シリアやネクタスに愛されていたのか」を、改めて再認識した。もしも、グローレンの管轄で自分が育成されていたとしたら──自分も、これから生まれるクローンのように、脳の一部に手を加えられてしまったかもしれないのだ。
──間違っている。アーシアンの在り方も、クリティカンの誕生の仕方も。すべてが、このエデンでは間違っている。
サルジェは強く、そう思った。
* * *
α4区、D49研究室。
サルジェは、自分のクローンが育成されているだろう場所に向かった。
クリティカンは子孫を持つことを禁止はされているが、そのクリティカンからさらなる複製を造ることは可能だった。むしろ、一度造られたクリティカンで優秀なものは、まるでアンドロイドの量産型のように大量に産まれてくる。アンゲロイも一人のアーシアンから造られたクリティカンを量産したものだし、衛兵、労働者、すべては同じ手段で造られている。
グローレンはサルジェの頭脳に着目し、サルジェを量産しようと企んでいるのだ──サルジェはそう確信した。
α4区は、遺伝子工学研究室のみで造られた建物群だ。その中のD棟49階に、クローンの研究室がある。この研究室は、滅多に研究員も訪れない。クローンはデザインされたばかりのクリティカンと違い、安定して成長するからである。そのため、そこの管理はすべてアンドロイドに任されていた。
サルジェは事前にアンドロイドの動作を遠隔装置で止めると、静かに中へと足を踏み入れる。中は薄暗く、ところどころに明滅するモニターのライトだけが浮きだって見えた。
ふと、中央に水で浸された円形の装置があることに気がついた。サルジェにとっても、見慣れた装置だ。10歳になるまで、サルジェはそこで育ったのだから。
サルジェが装置に近づき、中にいる人物を見た瞬間──。
愕然とした。
そこにいる人物は、すでに「サルジェと瓜二つ」だったからである。
研究がスタートして、まだ2年しか経っていないはずである。しかし、その人物はすでに13歳から15歳ぐらいにまで成長していた。
──どうして、こんな急に成長を?
サルジェはそばにあるモニターを繰りながら、クローンの情報を探した。
「実験体名:セイラム」
そこには、そう記されていた。
「細胞分裂成功日、アース暦538年3月10日、その後順調に胎児期を過ごし、10月31日に胎児期を終えて人間の成長段階に移行。発育が早く、539年10月には10歳児に相当する体に発達。540年10月31日に15歳に相当するため、その日をもって育成装置から誕生の予定」
──10月31日?
サルジェは息を呑んだ。
──それって……来週じゃないか!
改めて装置の中にいる「もうひとりの自分」を見つめた。
クローンであるセイラムは膝を抱え、胎児のように体を丸めているが、そこにいる姿はまさしく「今の自分」だ。その上、彼は決して「自分と全く同じ」なのではない。グローレンによって「情緒を欠如させられた状態」で産まれてくるのである。
とても恐ろしいものを目の当たりにしている、そんな気がしてしまった。
──グローレンがクローン育成を成功させたということは、すぐに私は殺されてしまう。それまでの間に、何とかしないと……。
サルジェはそう確信した。
──先生! こんな時に、先生がいれば……。
ネクタスがインフェルンに赴任して、もう2年が経過している。しかし、まだ一向にネクタスが帰ってきた気配はない。だが、今は一刻の猶予もない。サルジェは「ひとりで」、これからどうするかを模索しなければならないのだ。
踵(きびす)を返してセイラムに背を向けると、サルジェは研究室を後にした。