第九章 針の筵(むしろ)
 サルジェの「アカデミー研究員としての人生」が始まった。アカデミーの地下にある純白の空間に張り巡らされた、まるで蟻の巣のようなクリティカン専用の寮。一部屋は人一人寝るのがやっとのスペースしかなく、それ以外個人的なものはいっさい置けない仕組みになっている牢獄のような場所。そんなところに、サルジェと同じ頭脳労働をするクリティカン達が大勢暮らしていた。
 朝目覚めてカプセルとしか言いようのない自室を出ると、わらわらと出てくるクリティカン達に出逢った。彼らはみな無表情で、それこそ蟻の巣から出てくる多数の蟻達のようだ。
 サルジェは自分のオリジナルが誰かを知らないが、優秀なクリティカンを産み出す場合、やはり四人の始祖であるミハエル、ガブリール、ラフィールの血筋を使うことが多いそうだ。アズライールの血筋も以前はクリティカン育成のDNAモデルに採用されていたが、ヴァルセルの叛乱があって以降、優秀なクリティカンの育成にアズライールの血筋の者は採用されなくなったという。
 みな半分瞼を閉じたような状態で、どこを見ているとも分からぬ視線。白い寝巻に身をつつみ、少年も少女も関係なくいっせいに自室カプセルから出てくる。みな、人形のように整った顔立ちのクリティカンばかりだった。
  ──ここまで沢山のクリティカンを見るのは、初めてかもしれない。
 サルジェが「おはようございます」と挨拶をしても、ほとんどのクリティカンは軽く会釈をする程度だ。それさえもあるのはいい方で、大半は挨拶というものを知らないかのように横を通り過ぎていく。誰も笑顔を浮かべるものはなく、誰も声を発しない。まるで機械仕掛けのような世界だ。これほどまでに味気ない一日の始まりなんて初めてだと、サルジェはそう思った。

 アカデミー研究員の制服は男性が黒で、女性は白だった。刺繍の柄は学生の時と同じで、刺繍の色だけが異なっている。学生の時は白地に朱の刺繍だったが、今回は鮮やかな青である。遠くからその制服を見ると刺繍だけが目立ち、何だか変な感じがする。地味な服が好きなサルジェにとって、とても着心地の悪いものだった。
 サルジェが配属を命じられた研究室は、昨日グローレンが言っていたとおり「クリティカン」をデザインする部署だった。少なくても1日に3体、多い時は5体から7体ぐらいデザインしなくてはならない。しかしクリティカンをデザインする研究者は、他にも大勢いる。ざっと見積もっても1日に100体近いデザインがされているはずだが、そんなに多くのクリティカンが量産されるわけでは決してない。とはいえ、サルジェの管轄は「デザインをするだけ」なので、その後自分がデザインして産み出した胚はどうなっているのか、実際に生命として誕生しているのか否か、サルジェには分からなかった。
 生命を生み出すはずの場所なのに、完全なる分業制。他の部署が何をしているか分からず、自分のやることだけをするしかない。「こんな状態で、生命を造り出していいのか」と、サルジェは度々疑問に思った。

 研究所での仕事は、サルジェにとって苦痛以外の何ものでもなかった。DNAの配列から人物の全体像を想像するのは楽しいと、そうは思う。しかし、その全体像が見えた後に、その人物から欠如した部分を徹底的に洗い出し、メスを入れて改良されるようにデザインし直していくという行程がサルジェは大嫌いだった。それはまるで「欠点は許されない」とも言うべき姿勢で、その人物の「ありのまま」を受け入れる姿勢とはほど遠い。それをするたびにサルジェは、クリティカンが「人工物でしかない」という現実を思い知らされるのだった。
 だが、この仕事がサルジェにとって利点をもたらすこともあった。
 自分と同じクリティカンをデザインすることで、「自分がどのようにデザインされたか」が、逆に見えてきたからである。同時に、「誰が自分をデザインしたのか」そして「誰がオリジナルなのか」にも興味を持ち始めた。
 クリティカンにとってオリジナルを探るということは、「親を探す」という行為に近い。また、記憶が依然として戻らないサルジェにとっては、自分のルーツを辿る行為でもあった。しかし、クリティカンのオリジナル情報は、誕生した後すべてエデンの中枢である管理コンピューターに保管され、アクセスが容易に出来ない極秘事項となっている。そのシステムの防御を如何に破り情報を引き出すかということが、今のサルジェにとって大きな課題となっていた。

 そんなある日のことだ。サルジェは通路で偶然ドルケンと出会した。
 ドルケンは落第を繰り返し、入学して3年経つ今もまだ1年生をしているため、彼と会うのは2年ぶりぐらいだ。ネクタスがいなくなったアカデミーで孤独を感じていたサルジェは、久しぶりの友との再会に顔が輝いた。

「ドルケン!」

 一方、ドルケンは一瞬にして表情が強ばった。その目は、会いたくない人物と会ってしまったという思いを浮き彫りにさせている。しかし、サルジェはまったくドルケンの様相に気づかなかった。
「お久しぶりです! 元気でしたか?」
 笑顔で走り寄る。反して、ドルケンの表情は依然として堅い。ドルケンはしばらくサルジェの頭の先から足の先まで眺めた後、低く言った。
「──研究員になったのか」
 サルジェはコクンと頷く。
「そうです。──でも、私の希望ではありません。それに、私はあまりこの制服が好きじゃなくて……。もっとも、学生の時のも好きじゃないですけど」
 そう言って苦笑する。
 サルジェにとっては、ただの他愛もないお喋りのつもりだった。しかし、研究員に憧れながらも落第を繰り返すドルケンにとって、それは途方もない嫌味にしか聞こえなかった。生まれついて持つ彼のプライドが、今のサルジェを前にしていると崩れ落ちていくように思えた。実力よりも大きく膨らみすぎたプライドを維持するためには、目の前の相手を否定するしかなかった。

「──言葉に気をつけろよ」

 思いも寄らぬ反応に、サルジェは驚いて息を呑んだ。
「君は今、研究員かもしれないけど、僕は君に色々教えてやった立場だからな! 僕は君の『先輩』なんだぞ! それを忘れるな!」
「そんな……。私はあなたを今でも慕っています。尊敬もしていますし──」
「黙れ! 僕にはそう受け取れなかった!」
「そ、それは誤解です! 私はただ、あなたと話がしたかっただけで……」
「もういい!」
 ドルケンはそう言うと、サルジェを突き飛ばして走り出した。

 ドルケンの変貌は、決して彼だけの責任というわけではなかった。
 アカデミーのファーストを落第してからというもの、ドルケンは指導教官であるグローレンから、毎日嫌味を言われ続けていたのだ。グローレンが指導教官にあたるクリティカンは、他にも数名いる。その中でもドルケンは出来が悪く、グローレンの当たりが一番きつかったのだ。

「貴様のオリジナルは、もともとアーシアンではない。クリティカンをさらにデザインした複製にあたるのだ。いわば、優秀な血筋がどこにあるかも分からないような『馬の骨』から無理に造り出したことを思えば、貴様の出来の悪さはある意味想定内でもある。……まぁ、かといって衛兵やアンゲロイに使える程の身体能力があるDNAでもなし、とっくに廃棄処分にしたようなクズDNAだ。貴様があまりに使えないようなら、オリジナルのDNA同様、廃棄処分にしてやるからそう思え」

 日々、ドルケンはグローレンからそう言われ続けた。罵声を浴び続けながら2年間を過ごし、彼のプライドはズタズタに引き裂かれ、内面に育ったネガティブな感情は日々募っていく一方だった。
 そのような中でサルジェの噂を聞くのは、ドルケンにとってこの上なく苦痛だった。正直なところ、ドルケンはサルジェを心のどこかで馬鹿にしていたのだ。サルジェの無邪気さ、誰に対しても誠実であるところ、素直さ、何をとってみても「愚の骨頂だ」そう思っていた。
 その上、今やアカデミーの権力者となったグローレンに対し、サルジェの指導教官であったネクタスは退官処分にさせられた人物だ。サルジェには本来バックボーンがないにも関わらず、彼が未だに注目されているのは、彼が「優秀である」という周囲の評価だけだった。一方ドルケンはバックボーンがあるにも関わらず、自分の才能が認められないことにより苦況に立たされている。そのことが、自分の中で鬱憤を溜めている元凶であることも、ドルケンはよく分かっていた。

 ──何であの世間知らずで何も分かってない「お馬鹿なチビ」が、優秀って持てはやされるんだ。何でそれが僕じゃないんだ。何で……。何で……。

 それは全く、サルジェにとっては責任のないことだ。ドルケンが追い詰められているのはサルジェのせいでも何でもなく、また逆に言えば、「ドルケンのせいでもない」ことなのだ。
 しかし、ドルケンはそこまで冷静に自分を客観視することが出来なかった。自分を見つめ、改善することが出来たら、ドルケンにもまた新たな道が切り開かれたのかもしれない。しかしそれが出来ない彼は、ただひたすら苦悩し、自分の苦境をすべて「サルジェのせいだ」と思いこむ以外の道を知らなかったのだった。

* * *

 サルジェがアカデミーの研究員になってから、3ヶ月の月日が流れた。サルジェは少しずつ、このアカデミーでの自分の立ち位置を定めつつあった。
 それは、「決して何にも期待しない」というものである。クリティカンに友達が出来ることにも「期待しない」、仕事を楽しいと思うことにも「期待しない」、そして、グローレンの態度が少しでも変わっていくことにも「期待しない」。何も望まず、ただ「淡々と」日々をこなしていく──そうすることで、自分が必要以上に思い悩まずに済むということを見いだした。

 そして、表面上の生活が淡々と流れていく反面、サルジェの心の奥底にある思いは、ますます激しい炎と化していった。
 サルジェは、このアカデミーにおける苦痛から抜け出すために「自分のルーツ」を辿ることを決めたのだ。それは、エデンの中枢部に保管されたオリジナルの情報をハッキングするだけでなく、「自分の奥底にある記憶を甦らせること」である。
 この3年間、サルジェは何度も「破片となって散らばっている記憶のピースを集めよう」と努力した。しかし、どんなに自力で行おうとしてもなかなかひとつの絵にまとまらない。そのためサルジェは、「外部からその記憶を引き出す方法」を探すことにしたのだ。

 外部から──。
 すなわち、「サルジェ自身が、自らの脳神経にアクセスする」ということだ。

 サルジェはDNAをデザインしていくうちに、自分の脳神経を「ナノロボット」で復元することが出来るのではないかと思いついた。脳の神経細胞であるシナプスは1ミクロンの大きさだが、そのシナプスには「1万個に渡るシナプスよりもさらに小さなナノ単位の構造」がある。ナノ装置は、シナプスや神経細胞よりも小さな装置で、脳の神経そのものに作用することが出来る。脳の神経の内側から途切れたシナプスを修復することで、記憶が甦るかもしれない──サルジェはそう考えたのだ。

 今日もサルジェは、研究の合間をぬってナノロボットの開発をしようと足早に通路を歩いていた。と、その時。
「ずいぶんと急いでいるな」
 嫌な声がした。サルジェが大嫌いな男、グローレンが背後から呼びかけたのだ。
「貴様は最近、仕事に熱心になっている様子だな。まぁ、使えないと判断されないようにすることだ」
 相変わらず、上から見下ろすような態度である。
 サルジェはただ黙って、グローレンを睨み据えていた。サルジェがこのように攻撃心を顕わにするのは、後にも先にもグローレン以外誰もいない。
「だが、丁度良かった。貴様に用事があったのだ」
「……私に?」
「そうだ。今日の午後1時、私の研究室まで来い」
「一体、何の用ですか?」
「来れば分かる」
 それだけ言うと、グローレンは踵(きびす)を返して遠ざかっていった。しばらくの間、サルジェはグローレンの背中をただ見つめていた。

 その日の午後1時。サルジェは、グローレンが指示したとおり研究室に訪れた。
 扉が開くも、中は薄暗い。誰かがいれば照明が明るくなるにも関わらず、サルジェが足を踏み入れても暗いままだ。サルジェは怪訝に思いながらも、研究室に足を踏み入れた。背後で、扉の閉まる音がする。
「博士。私です、サルジェです」
 呼びかけても、誰も反応しない。不審に思いながらも周囲を見回しながら、奥へ奥へと入って行った。ふと、グローレンの机の上に赤く明滅するライトがあるのに気がついた。
 ──何だろう、これは……。
 しばらく立ちすくんで考えていた、次の瞬間。

 装置から、勢いよく何かが噴出した。風圧が顔にかかり、サルジェは咄嗟に目を覆った。
 だが、それと同時に膝が崩れる。意識が急激に遠のき、そのまま床に倒れ込んだ。

 しばらくすると、研究室の扉が開かれた。中央にはグローレンが立ち、脇には双子のように同じ顔をした2人の若い研究員が立っている。
 床の上には、サルジェが横たわったままだ。その姿を見て、グローレンはフッと笑った。
「──よく効く催眠ガスだな。なかなかに使える」
 そう呟いてから、二人の研究員に振り返る。
「こいつを実験室に連れて行け。あと3時間はこのまま眠り込んでいるだろう。その間に、こいつの脳の構造、神経分布、およびDNAを採取するのだ。いいな」
 研究員は無言で頷いた。

* * *

 目覚めると、サルジェはグローレンの研究室でうつ伏せで倒れたままだった。午後1時に来たはずなのに、すでに周囲は暗くなっている。時計は午後6時を示していた。
 立ち上がるため膝をつくと、ぐらりと目眩(めまい)を感じる。頭を押さえ、周囲を見回した。先程、サルジェの前で明滅していた装置が忽然と消えている。サルジェは研究室内の「異変」を感じ取った。

 ──5時間もグローレンが戻って来ないなんて、不自然だ。あの装置はきっと、催眠ガスの噴出装置に違いない。私が眠っている間、彼は一体何をしたのだろう……。

 しかし、相手はあのグローレンだ。問い詰めたところで、何も答えはしないだろう。
 ──ナノロボットで記憶の再現をはかれば、今回何をされたかも分かるはずだ。今は答えを焦らずにいるしかない。でも必ず、あいつが私に何をしたのかを突き止めてやる。
 サルジェはそう考えると決意をあらわすように拳を握りしめ、研究室を後にした。