第八章 別離
ネクタスが帰宅した頃には、すっかり陽も落ちていた。太陽光からの放射能を守るようエデンを包むフィールドも、日の入りと共にエネルギーを低下させ、それにより標高に応じて温度もいくらか下がってしまう。フィールドが薄くなったエデンの温度は初秋の風と交じり合い、道行く人に肌寒さを感じさせた。
秋の花々が香る庭を抜け、薄闇に包まれた玄関の扉を開けると、娘ティナの明るい笑い声が響いてきた。無言のまま通路を進み、ダイニングの扉をそっと開けてみる。隙間から中を覗くと、サルジェとティナがテーブルを挟んで向かい合い、無邪気に笑い合っていた。子供達は最近流行しているカードマジックに夢中である。サルジェが器用にカードを裁くのを見て、ティナが首を傾げた。
「お兄ちゃんって、すごく器用よね。何で私には出来ないのかしら?」
そう言うと、ティナはサルジェからカードを受け取る。サルジェの見よう見まねでカードを裁いてみるものの、ティナの意志に反してカードはポロポロとこぼれ床に落ちた。それを見て、ティナもサルジェもころころと愛らしい笑い声をあげた。
ネクタスは胸が痛んだ。 今、こんなふうに笑顔を浮かべているサルジェも、明日にはアカデミーの寮に入れなければならない。それどころか、自分も明後日にはインフェルンに赴任し、もうサルジェのそばで守ってやることが出来ないのだ。その間、サルジェの身にどんなことが起こるのか――ネクタスは不安でたまらない。一層のこと、サルジェも一緒にインフェルンに連れて行きたいとさえ思った程だ。
しかし、それが無理難題であることぐらい、ネクタスはよく承知している。
あのグローレンがネクタスを引き離す理由は、「優秀とされるサルジェの脳を研究したい」と考えているからだろう。──もしかしたら、「サルジェのクローン」を育成しようとしているのかもしれない。仮にそうであれば、サルジェのクローンが問題なく安全に育つことが保証されるまでの期間、サルジェに危険は及ばないだろう。その期間は長くて5年、短ければ2年。最低「2年」は、サルジェの安全は守られることになる。奇しくも、ネクタスの赴任期間も2年だ。それは「大いなる目的」を遂げようとしているネクタスにとって、降って湧いた絶好の機会でもあった。その間に「サルジェの旅立ちの準備」をしなければ、と──。
ふと、サルジェが立ち尽くすネクタスに気がついた。輝いた笑顔で出迎える。
「先生! お帰りなさい」
その声にティナも顔を上げた。二人のあどけない笑顔に迎えられ、ネクタスは微笑んだ。ゆっくりテーブルに近づくと、ティナの肩に手を置いて静かに語りかけた。
「──ティナ。お父さんはサルジェと話がある。お前は二階の部屋に行って、サルジェを待っていなさい」
その途端、サルジェの顔から笑顔が消えた。ネクタスは一体、自分に何を告げようとしているのか――不安が過ぎる。
「分かったわ!」
ティナはサルジェが感じた不穏の空気など察する様子さえなく、無邪気に返事をすると、テーブルの上にあるカードをまとめて手に持った。
「じゃぁ、お兄ちゃん。また後で」
ティナはパタパタと軽やかな足音をたて、部屋を後にした。残されたサルジェは、ただネクタスの目をじっと見つめ返している。 やがて、ネクタスが重い口を開いた。
「君の進路が──今日、決定したよ」
サルジェはそんな言葉に喜ぶ様子さえなく、ネクタスを見つめたままだ。
「君は来週から、研究員として遺伝子工学研究所に配属されることになった。その為、明日の朝にはここを出て、寮に入らなければならない」
サルジェの目が見開かれた。突然告げられた言葉に、サルジェ自身が状況を呑み込めていないようだった。
「あ、明日……?」
ネクタスは深く頷いた。
「そうだ、明日だ」
「そんな……! いきなり──突然すぎです!」
呆然とかぶりを振るサルジェの肩を、ネクタスが両手でぎゅっと掴んだ。
「──すまない。本当に、すまない」
サルジェの顔が哀しみで歪んだ。ついに来た――そんな思いでいっぱいだ。覚悟はしていた。しかし、実際にその時が訪れるとやはり辛い。サルジェは目を見開いて、必死に涙を堪える。 ネクタスは両手を伸ばし、サルジェの頬を優しく包んだ。サルジェは瞳に涙を浮かべながらも、それが流れ出てしまわないようじっと耐えている。
「私も明後日には、インフェルンの研究所に発たねばならない。――もう、君のそばにいることが出来ないんだ」
サルジェの目が見開かれた。驚きと哀しみから、唇が僅かに震える。
インフェルン――。エデンのある大陸カエルムとは真反対にある、遠い世界。そこに一度送られたからには、一体いつサルジェのもとに帰れるのか、ネクタス自身にさえ分からないはずだ。
しかし、ネクタスはどんな手を使ってでもサルジェのもとに帰ると、そう決意していた。
「――すまない、サルジェ! 私は君を、あの冷酷なグローレンのもとに置いていかなければならない。だが、信じておくれ。私は必ず戻ってくる。それまで――それまで何とか耐えてくれ!」
サルジェは自分を抱きしめるネクタスの広い肩に顔を埋め、目を閉じた。
ああ……。自分は、こんなにも愛ある者に囲まれている。先生の深い愛が、私に伝わってくる。
先生は、私にとって本当のお父さんだ。私も、お父さんを心配させてはいけない――。
「先生、私は大丈夫です。私は何があっても負けません。その強さを、先生がこの3年間で私に与えてくれました」
サルジェは穏やかにそう言った。
ネクタスは体を離すと、サルジェの瞳を見つめる。サルジェは凛とした表情で、ネクタスを見つめ返していた。
「私はいつか、こういう日が来ることを知っていました。だから――どうか、心配しないでください。私は、何があっても『負けません』」
その言葉はあまりに強く、だからこそサルジェの哀しみをよりいっそう浮き出たせた。ネクタスはサルジェを不憫に思い、力強く抱き締めた。
* * *
サルジェは重い足取りで、二階に通じる階段を上がった。ティナの部屋に向かいながら、どうしようもない寂しさを感じずにはいられない。
暗くなった通路に、ティナの部屋から漏れた光が射し込んでいる。サルジェは光の前に立つと、中の様子を窺った。足を投げ出すような姿勢でベッドに腰掛け、ティナはカードマジックに夢中だ。しかし、何度奮闘しても、カードは一向にティナの言うことを聞こうとしない。
「……ンもう! 何で出来ないのよ!」
ティナは苛立つように声をあげる。そんな姿に、サルジェは笑みを浮かべた。入室するサルジェに気が付くと、ティナはカードを放り出して足をばたつかせる。
「もぉ、全然駄目! さっきから頑張ってるんだけど、まったく出来ないの。あーあ。明後日、みんなの前でやる手品はやっぱりやめた方がいいかもしれない。──バッカだなぁ、私! 手品やるなンて、言わなきゃ良かった!」
いつもなら笑って返せるような言葉も、今のサルジェには重くのしかかるだけだ。この暖かい笑顔にも、楽しい日々にも別れを告げなければならないなんて――そう思った途端、ずっと堪え続けていたサルジェの涙が一気に溢れだした。
「お兄ちゃん、どうしたの?」
突然泣き出したサルジェを見て、ティナは困惑した。サルジェはティナに駆け寄ると、力強くしがみつく。ネクタスの前では心配させまいと見せられなかった涙だが、ティナの前では溢れるように流れ続けて止めることさえ出来ない
「お兄ちゃん。一体、どうしたの? お父様に何か言われたの」
サルジェはかぶりを振った。
「じゃぁ、何があったの?」
「ごめんなさい……」
いきなり謝られ、ティナはポカンと口を開けた。
「ごめんなさい……。明日、デートする約束だったのに──」
ティナはようやく理由が分かったとばかり、大きく頷いた。
「分かったわ! 明日、お父様との用事が入っちゃったのね。それなら、別にいつでも大丈夫……」
「違うんです!」
サルジェはティナの言葉を遮った。ティナは首を傾げる。
「だったら、どうして?」
でも、サルジェはそこから先が説明出来ない。ティナに理由を話すことなく、ただ泣き続けるだけだった。
* * *
翌日の早朝、サルジェは別れを告げる為庭を歩いた。昨晩ずっと泣き続けたせいで、ほとんど眠ることが出来なかった。泣き腫らした目で、周囲の草花を見つめる。風の中、花々が朝日に照らされ活き活きと輝いていた。 花壇に咲いたこれらの花は、すべてティナの為にサルジェが育てたものだ。サルジェは花壇の前に座ると、指先を伸ばして柔らかい花びらに触れる。
――もう、お前達と遊ぶことさえ出来ないんだね。
サルジェの目に、再び熱いものが込み上げてきた。
この3年間、サルジェにとっては本当に幸福な日々だった。勿論、サルジェだって自分がずっとこの家にいられるなどと、思ってはいなかった。しかし、今まさにこの平和な空間から出ていかなければならない寂しさと悲しみは、口で言い表すことなど到底出来ない。その上、今日からサルジェは、自分が最も嫌いな場所「アカデミー」で生活しなければならないのだ。ネクタスもいなくなってしまう中で、自分はどう生きていけばいいのだろう……そんな不安でいっぱいになった。サルジェの瞳に、涙が浮かんだ──その時。
「お兄ちゃん」
背後で声がした。
振り返ると、ティナが両手に包みを抱えて立っている。目は泣き腫らしたように真っ赤で、じっとサルジェを見つめていた。
ティナは昨晩、ネクタスから呼ばれて自室でずっと話していた。ネクタスが2年間インフェルンに行くことを知った途端、ティナは大声で泣いていた。ずっと甘やかされ、自由奔放に生きてきたティナが、いきなりひとりになるのだ。心細いのは当然のことだと言えるだろう。
「ティナ……」
「お兄ちゃんも辛いと思うけど……私も辛いわ。お兄ちゃんがいなくなるだけでなく、お父様まで……。私、突然『ひとりぼっち』よ」
そう言うと、顔を伏せる。
「──ティナ」
サルジェが歩み寄ろうとした時、ティナは気丈に笑った。
「でもね、大丈夫! 子どもの頃からずっと乳母代わりだったアンドロイドもいるし、お父様とは毎日通信出来るし、何よりも先生達がティナのこと見てくれるっていうし! だから、お兄ちゃんは何も心配しないでね」
それは、ティナの精一杯の「優しさ」だった。サルジェがどれほどアカデミーを嫌っていて、そこに行くのを嫌がっているかを知っているティナは、出来る限り「笑顔」でサルジェを送り出してあげよう──そう思っていたに違いない。
サルジェにも、それが痛い程伝わってきた。何も言えずにただ立ち尽くすサルジェの前に、今度はティナが歩み寄った。
「ね、お兄ちゃん。『目』閉じて」
「目?」
「いいから早く!」
サルジェはわけが分からないまま、まぶたを閉じた。視界が閉ざされたせいか、ことさらにティナの甘い香りを感じる。
しばらくして、サルジェの唇にティナの唇がフワリと重なった。
驚いて目を見開いたサルジェの前に、照れ笑いを浮かべるティナがいた。
「これ、お別れのキスじゃないわよ。『約束のキス』!」
「や──約束?」
「本当なら今日、ティナとデートする約束だったでしょ? だから──必ず、今度は『お兄ちゃんから、ティナをデートに誘って』ね」
そう言うと、両手に抱えていた包みをすっと差し出した。
「はい、これ! その時に着る服ね」
例の「ピンクリボン」だ……。
「って──まぁ、これが着れないぐらいの身長にはなっていて欲しいかな。お兄ちゃん、ティナよりおチビだから」
ティナの言葉に、ようやくサルジェがプッと笑った。
「──確かに、そうですね。分かりました、頑張って成長します」
「うん! 頑張って」
そう言うと、ティナは力強くサルジェを抱きしめた。
* * *
アカデミーに到着し、ネクタスとサルジェはグローレンの研究室に向かった。グローレンの研究室はアカデミーでも元老員達の住む区域に近く、奥まった場所にある。その周辺は、遺伝子工学の研究やDNAデザインをする部署が随所にある区域だ。すべてが白で統一され、光だけしかないような研究室。研究員達はそれぞれ空中に浮かぶモニターを指でさばきながら、計算式を打ち込んでいた。
サルジェがひとりの研究員が打ち出すDNAの配列を見入っていた──その時。
「ずいぶんと遅かったな」
声に反応して振り返ると、グローレンが立っていた。
「この研究室は、頭脳労働に長けた優秀なクリティカンをデザインする部署だ。貴様の配属先でもある。ここの責任者は『私』だ。これからは、上司である私の言うことを聞くように」
感情を感じさせず淡々と話すグローレンを、サルジェは見据えたままだった。サルジェの中には未だグローレンに対する強い警戒心があることに気がつき、グローレンは再度声を荒げていった。
「いいか。『私が貴様の上司』なのだ! 分かったら返事をしろ」
「──はい」
どこか反抗心の宿る返事だった。グローレンはギロリとサルジェを睨み「フン」と鼻を鳴らし、ネクタスと向き直った。
「貴様の役目はここで終わりだ。さっさとインフェルンに行く準備をしろ。明日から発ち、2年の契約が終わるまで帰って来ることは許さぬと、元老員達からのお言葉だ。アンゲロイや治安局にも貴様がインフェルンに左遷されたことは手配済みだ。契約中に戻ってきたらその場で捕まると、覚悟しておくんだな」
まるで犯罪者のような言われようだった。しかし、ネクタスはグローレンのそんな物言いよりも、自分がいなくなった後のサルジェを気遣っていた。ネクタスはサルジェの前に跪き、彼の肩に手をのせた。
「それじゃ、サルジェ……。私はもう行くよ」
「──先生」
サルジェがネクタスの手を握ろうとした、その時。
「そこまでだ! こんなことをしていたら、時間がいくらあっても足りん!」
グローレンはそう言うと、ネクタスの腕をぐいっと引っ張り立ち上がらせた。
「先生!」
サルジェが叫ぶと、ネクタスがサルジェを振り返った。
──心配しなくていい。必ず、私は戻ってくるから。
ネクタスの目は、そうサルジェに語りかけていた。