第七章 グローレンの策略
 瞼を開けると、紺碧の世界が広がっていた。僅かに動こうとすると、無数の泡が立ち込める。
 これは……何だろうか。まるで、次元の底から宇宙が湧き出ているかのようだ。
 次元の底? そんな言葉、自分はどこで覚えたのだろう──。
 ああ、そうだ。そういえば、「あの女性(ひと)」が先日、教えてくれたんだっけ……。

 そんなふうにぼんやり考えながら顔をあげると、まっすぐに自分を見つめる女性がいた。女性が装置を指先で触れると、目の前には蛍光色の淡い緑で「ON」という表示が現れた。
「サルジェ……。聞こえる?」
 鈴のような女性の声が聴覚を刺激した。ああ、何度も聞いてきた大好きな声。大好きな女性。
 それなのに、何故だろう。今日はとても悲しそうな表情をしている。涙を目にいっぱい溜めて、祈るように手を合わせてまっすぐ見つめている。一体何があったのかと不安になった。

「サルジェ、ごめんなさい……。これ以上、私はあなたを守ることが出来ない……」

 そう言って口に手をあてると、瞳から大粒の涙をこぼした。口元を抑える指先が小さく震えている。装置の中にいて感情というものに触れたことのないサルジェには、女性の悲しみよりも困惑のみが伝わってきた。これから何かが起きるのか、起きようとしているのか──サルジェには、まったく予想だに出来なかった。
「──だから、ごめんなさい。『こうするしかないの』。分かって」
 そう言うと、女性は音声装置をオフにした。サルジェに聞こえないようにして、こう呟く。
「まだ早いけど、この装置から出ましょう。そして、このエデンから逃げ出して、ヒューマノイドタウンで私とあなたの二人で生きていきましょうね。……大丈夫。きっと、ヴァルセルが天国からあなたを守ってくれているはずだから──」
 そう呟くと、指先で宙に浮かんだパネルを操作した。女性の指先が軽やかに動くと同時に、サルジェを包む液体が轟音と共に減っていく。何が起きているのか分からず、サルジェは混乱していた。

 その時だった。
 突然、紺碧の空間が光に包まれた。通路のドアが開き、そこから数名の男達がなだれ込む。アンゲロイだ。中央には、まるで蛇のように鋭い目つきをした男が立っていた。
「グローレン……!」
 グローレンと呼ばれた男は、手を後ろに組んだまま無表情で歩み寄った。一瞬だけ視線をサルジェに向けたが、すぐに女性へと戻す。
「何だか胸騒ぎがすると思って来てみれば……やはり、裏切り行為をしていたのか」
「あ──あなたには、この研究に口出しする権限なんてないはずよ!」
「残念だがあるのだよ、シリア。私は今日から、遺伝子工学研究所の所長になったのでね。君が大好きなネクタスは、アカデミーの学院長だ。研究所の権限は、すべて私に託されたのだよ」
「そ、そんなこと……そんなこと、ヒューランド宰相がお許しになるはずがないわ」
「ヒューランド?」
 そう言うと、グローレンはさも馬鹿にするかのように大声で笑った。
「あんな『雇われ大臣』に何の権限があるというのだ! 宰相なんざ、所詮は元老院の駒にすぎん。それに、ヒューランドはネクタスの叔父だ。あいつもネクタスやお前とグルの可能性がある。今回の人事については、アグティス皇帝直々の命として、元老院の長たるサラス・ディス・ミハエルから指示を頂いている。それだけではない。『裏切り者の拘束』もな」
「拘束…?」
 シリアを追い詰めるのが余程楽しいのか、グロレーンは絶えずほくそ笑んでいた。
「お前の身柄を、当分私の命のもとで監禁する。抵抗すれば殺せとの命令もある。──さぁ、どちらを選ぶ?」
 そう言って、グローレンはアンゲロイ達へ合図するかのように、スッと右手をあげた。その瞬間、特殊部隊アンゲロイがシリアに近づこうとした。しかし──。

「来ないで!」

 シリアは持っていた自爆装置を掲げた。シリアはこうなることを予測し、最悪な展開となった時にはサルジェと共に自殺する道を選択していたのだ。
「それ以上近づいたら、この自爆装置のスイッチを押すわよ」
 だが、グローレンは余裕の笑みを浮かべている。シリアが「それを出来ない」ことを見抜いていたからだ。
「……いいだろう、押してみるがいい。私も、ここにいるアンゲロイも命を落とすが、私はこういう時の保険として脳内にチップが埋め込まれており『AI』に連動している。だから私の脳はすぐに再生されるし、肉体もすぐにクローン化出来るようしてある。だから、私は貴様の自爆に巻き込まれても『痛くもかゆくもない』。アンゲロイは、もともとクローンだ。最初から死の概念なんてものがない。そう考えると──残念ながら、ここで死ぬのはお前とそこにいるお前のクリティカンであるサルジェだけ、ということになるな」
 その言葉に眉間を寄せ、シリアは背後を振り返った。
 我が子のように愛情をかけて育てたサルジェ。サルジェは自分のDNDから誕生した人造人間などではなく、シリアにとっては自分の子供と同じだった。
 ようやく5歳になったばかりの愛しい我が子。自分と同じ翡翠色をした大きな瞳には、不安が表出している。何が起きているのか分からずに、不安そうに自分を見つめるサルジェの顔を見た途端、シリアの決意が揺らいだ。自爆装置を手から落とし、膝を崩した──その瞬間だった。
「──殺(や)れ」
 たった一言だった。
 たった一言のその命令に、アンゲロイが構える銃からレーザーが放たれた。シリアの体をレーザーが撃ち抜き、その瞬間、シリアは床に倒れ込んだ。純白の研究着は真っ赤に染まり、薔薇の花が散るかのように鮮血が虚空を舞った。サルジェの装置にも飛び散ったほどだった。
 それでも、シリアはすぐに息絶えることはなかった。両肘をつき、全身の力でサルジェの方へと向き直る。サルジェの元に近づこうと、必死に床を這って行った。

「サルジェ……サルジェ……」

 涙ながらに呼ぶ声は、サルジェの耳にまで届かない。しかし、シリアが手を伸ばして泣きながら言った唇の動きを、サルジェははっきりと記憶した。

「──サルジェ。愛しい……私の……子」

 その瞬間。
 ハッとサルジェは飛び起きた。はぁはぁと肩呼吸をし、深くため息をつく。
「またあの夢……」
 サルジェが人生において最悪だと思える事件が起きてから、すでに8年。サルジェは13歳になっていた。ネクタスの元で暮らし始めてからしばらくの間は見なかったのに、ここ数日、この夢ばかり繰り返してみるのだ。そして決まって、女性が死ぬ場面で目が覚める。

 ──何かの予兆……なのかな。

 そんなふうに思いながら、サルジェはベッドから足を下ろした。そのまま鏡の前に行く。鏡の前には、輝く金髪をした、翡翠色の瞳の自分が立っている。それは、あの研究員と同じだ。
 ──でも、ティナにもよく似ていた。ティナの瞳はコバルトブルーだけど、瞳の色が違うだけで、あの女性に似ている気がする。
 思えば、サルジェ自体ティナと兄妹のように似ていると言われることが多かった。3年前、ネクタス邸に訪れたネクタスの叔父ヒューランドが、サルジェとティナを見て「まるで双子のようだ」と何度も繰り返していたのを思い出す。
 ──そういえば、ティナは「ガブリール」が始祖だと言っていたっけ。それは、父親である先生の始祖がガブリールだからだろう。でも……、何故かティナのお母さんの話って聞かないな。
 サルジェはそんなふうに思う。
 だが、DNAで管理されているエデンにおいて、片親なんて状況は決して珍しくなかった。自分のDNAと、相手のDNAはもっとも優秀な異性のものを選ぶというのは不思議なことではない。おそらくネクタスもそうしてティナを育成装置で誕生させたのだろう、サルジェはそう解釈することにした。

* * *

 13歳になったサルジェは現在、最終学年であるフィフス(5学年)としてアカデミーに在籍している。本来順当にあがればサードであるが、入学時だけでなくさらに2年飛び級をした為、通常よりも早いペースで進学してしまったのだ。
 ネクタスの後を追い「遺伝子工学」を専攻したサルジェは、今ではDNAデザインも企画するようになっていた。サルジェが好きなことは純粋に「生命を象る」ということで、アーシアンの優秀な子供をデザインするなどということは、サルジェにとって毛頭興味のない事柄だった。
 サルジェが夢中になっていたのは、花や昆虫などの小さな体に生命が宿るその神秘性であり、誰がデザインしたわけでもないのに宇宙の律動にあわせて生きる動物達など、神の領域で行われるデザインそのものだった。「いつか自分も、新しい生物を造ってみたい」そんなふうにも思う。そうしたら、子犬ぐらいの小さな象を産み出すのはどうだろう、或いは、妖精のような蝶も可愛いかもしれない、そんなことを想像するのがサルジェの生き甲斐となっていた。

 今日もサルジェは、ネクタスの庭に広がる芝生に腰をかけて、生物の観察に勤しんでいた。
 サルジェの掌で、小さなコオロギがよちよちと歩いていた。大きさからしても、おそらく子供のコオロギだろう。サルジェは大きな瞳をさらに見開き、コオロギをじっと見つめた。自分の掌の中に小さな生命があることを思うと、何だか嬉しくてたまらない。掌を上げたり下げたりして愛しそうに見つめた後、隣に座るティナにもこの感動を分かち合いたくて呼びかけた。
「ティナ! すごいでしょ、見て! この子こんなに小さいのに、成長していくために必要な機能がすべて備わっているんですよ。……生命って、不思議ですよね。大きさに関係なく、何かの力によって生かされているかのように精巧で───」
 ほころぶような笑顔で言うサルジェに反し、ティナは芝生に頬杖をつきうつ伏せたまま、宙に浮かぶモバイルデータのパネルを繰っている。ホログラムで表示されるファッション雑誌の項目から、一瞬でも目を離そうとはしなかった。
「──そう? 別に興味ないわ。それよりお兄ちゃん、よく虫なんか平気で触れるわね。私だったら絶対に無理よ」
 冷めた口調でそう言う。
「そんなことないですよ、すごく可愛いから」
 ティナの前にコオロギを差し出した瞬間、「きぃっ!」と甲高い悲鳴をあげた。
「やめて! 私、虫が嫌いなの! それ以上近づけないで!」

 感慨深く言うサルジェに反して、ティナの反応は対極にあった。ティナの興味は生命や植物ではなく、お洒落と遊びと、どれほど友達から好かれ、どれほど男子学生に注目され、そして、どれほど自分を美しく見せられるかということばかりだった。いつでも鏡を覗き込んでは髪をとかすティナを見て、ネクタスでさえ「もう少し、自分のこと以外にも興味を持ってくれたらいいのに……」とこぼすことがある程だ。
 しかし、ティナの年齢を考えれば、あながちそれは当然のことでもあった。
 3年の歳月が流れ、9歳だったティナは12歳になっていた。3年前は小柄だったティナも、気がつけばどんどん背が高くなっていき、今となってはサルジェの身長さえ抜いてしまっている程だ。
 同い年のアーシアンの中でも発育が早いティナは、一年前に初潮を迎えている。それ以来、ティナは女性らしい体つきになってきており、胸も少しずつ膨らみ始めていた。3年前はサルジェと髪の長さの違いぐらいしか見分けがつかなかったが、今となっては見た目だけでティナが女性であることが分かる程だ。
 一方サルジェはこの3年間あまり大きな変化はなく、身長も伸びなかった。相変わらず小柄で華奢、少年なのか少女なのかの見分けがつかない。変声期が訪れる予兆もなく、声はソプラノのままだった。もっとも、サルジェもそんな自分の容姿に少しコンプレックスを持ち始めており、意識的に「男性らしくあろう」と努力をしていた。そのため、私服の時は出来るだけ簡素で飾りのない服を身につけるようにしている。彼が好むのは白いシャツに焦げ茶色のスラックス──まるで中年男性のような出で立ちだが、それ以外はあまり着ないようにしていた。
 地味な衣装ばかりのサルジェを心配し、ティナが襟元にリボンのついた光沢のあるピンク色のブラウス(ティナ曰く、「エデンで最も流行しているブラウス」だそうだ)を買ってきたことがあったが、サルジェはありがたく頂戴はしたものの、一度も袖を通せずにいる。
 ティナがぼそっと呟いた。
「お兄ちゃん、せっかく綺麗な顔立ちしてるンだから、もっとお洒落すればいいのに……」
「動きやすい服の方が好きなんです。それに、アカデミーでさんざん派手な制服を着ていますし。普段着は、私にとって『息抜き』なんですよ」
 ニコッと笑えて答えたが、ティナの表情は険しいままだ。
「駄目よ! そんなんじゃ、デートした時に私が恥ずかしいもん」
「え? この服装、どこかまずい?」
 サルジェの動揺に、ティナは目を細めて「ハァ……」と溜息をついた。
「おじさんじゃないんだからさ、もっと華やかな服着てよ! そんなんじゃ、まるでお父様の普段着だわ。お父様がセンス悪いのは仕方ないにせよ、お兄ちゃんまでセンス悪くなるなんて、私耐えらンない! どうしてこう、この家には野暮ったい男しかいないのかしら!」
 いっきに捲し立てられ、サルジェは少し「しょぼん」とした。しばらくして、ティナが手を叩いて言う。
「──あ、そうだ! このあいだ、ティナがあげたブラウスあったじゃない? あれ着ればいいのよ!」
 テカテカしたピンク色のブラウスが脳裏に過ぎった瞬間、サルジェの顔は苦虫を噛み潰したような表情になった。
「む、む、無理です! 絶対に無理! あんなの着れません!」
「無理じゃないわよ! あれ、高かったのよぅ! 絶対に着てもらうからね!」
「ピンクなんて着たら、ただでさえ女と間違えられるのに余計女になっちゃうじゃないですか!」
「そんなことないわよ! 今、アーシアンの男性の中でピンクは流行色なんだから!」
 一体、どこでそんな色の服を着る機会があるのだろう──アカデミーと自宅しか往復しないサルジェにとっては、甚だ疑問だった。
「何が何でも、あの服を着てもらうわ! そうしなかったら、もうお兄ちゃんとは『口きいてやらない』から!」
「そんなぁ……」
 途方に暮れるサルジェの前で、険しい表情が一変、ティナがにんまりと笑った。
「これで決定! 明日は、ティナと『初デート』の日よ。あの素敵なブラウスを着てね」
「え? あ、明日?」
 相変わらず強引なティナの言葉に、サルジェは何度も目を瞬きさせた。
「そうよ、明日。──文句なんかないわよね?」
 それは「文句なんか言ったら、承知しない」という──なかば脅迫だった。サルジェは了承する以外、道は残されていなかった。
「やだなぁ、もう。リボンがついたブラウスなんて、笑い者になっちゃうよ……」
「──何ですって?」
「いえ、何でもないです……」
 無邪気で物言いがストレートだったティナだが、12歳になった今、さらに押しの強い女性になってしまっていた。でも、そんなティナの強引なところも、サルジェは気に入っていた。内に籠もりあれこれ悩んでしまうサルジェにとって、自分が悩むようなことをまったく気にも止めない人に惹かれてしまう傾向があるようだ。
 そういえば、「ドルケン」──。
 彼も、サルジェが悩むようなことは欠片も悩んでいなかった。
 ドルケンとは1学年(ファースト)の間、ずっと親しい間柄でいられた。しかしセカンドにあがる際、ドルケンは成績不良で留年してしまった。そのために教室も変わってしまい、ドルケンと会うことはほとんどなくなってしまったのだった。
 時折廊下で彼とすれ違うが、ドルケンがサルジェを見る目は以前に比べて遙かに冷たく、まるで憎む相手を見るような目つきになっていた。それは、ドルケンのコンプレックスがさせるものであって、サルジェに責任があるわけではない。しかしサルジェは、自分がドルケンと共にいた1年間の間に、彼が進級出来るよう何か手助けが出来たのではなかったのかと悔いているようなところもあった。
 ──ドルケン、どうしているかな。今度彼にあったら、勉強を一緒にしないか誘ってみよう。何か私が力になれることが、あるかもしれないし。
 そんなふうにサルジェは思った。
 
* * *

 サルジェがアカデミー最終学年のフィフスとなってから、ネクタスはサルジェの進路について様々に思いをめぐらせていた。
 本来、サルジェをこのままアカデミーに残しておくことは得策ではないと、ネクタスは考えている。サルジェが「エデンでは人権を認められないクリティカン」であることを考えると、どんなに優秀な頭脳や才覚があったとしても、このエデンは生き辛い環境であるはずだ。それに、ネクタスの本心としては、サルジェには「エデンのことだけでなく、『地球全体』のことを考えて生きて欲しい」そんな願いもあった。
 サルジェはネクタスが抱いた期待どおり、とても優しい少年に育っている。彼の優しさはアーシアンだけに向けられるのでなく、500年もの間虐げられていたヒューマノイドにこそ向けられて欲しい、そんなふうに思っている。サルジェがどのように選択するかはサルジェ次第だが、そうはいっても、サルジェを誕生させた背景には様々な想い──オリジナルであるシリアの願い、ヴァルセルの願いが籠められているのだ。その願いにサルジェを拘束するのではなく、サルジェ自身が「気づき、選択できるように」導いていくことこそが自分の役目である、ネクタスはそう自覚していた。

 ふと、背後からグローレンが話しかけてきた。
「サルジェを、アカデミー卒業後、遺伝子工学研究所に入ることが正式に決まった」

 唐突の発言に、ネクタスは動揺した。
「──何だって? 私はそんなこと、一言も聞いていないぞ!」
「当たり前だ。『今』話したのだからな」
 グローレンはそう言うと、ネクタスのそばに歩み寄る。
「サルジェは本来、『生きることさえ許されない身』。そんなあいつがアカデミーの研究所に入れるのだ、この上なく名誉なことのはずだが?」
 その言葉には裏があるかのように、グローレンは目を細めて笑った。
「それとも──何か? お前はあいつを、他に『させたいもの』があったとでも言うのか?」
「いや……。そんなわけはないだろう」

 何があっても、ネクタスの計画をグローレンに知られてはならない。学友であったはずのヴァルセルを裏切り、残酷な刑によって彼を苦しめ、命までをも奪った奴には絶対に──。

 頑なに口を閉ざすネクタスを見て、グローレンは「フン」と鼻を鳴らした。
「それから、サルジェには今後貴様の家を出て、アカデミーの寮で暮らしてもらうこととなった。貴様の家にいても、甘やかされるだけだからな」
「何を言う。お前にサルジェのことを管理する資格はない。彼の指導教官は、この私だ!」
「残念ながら、『今は違う』のだよ」
 意味深な言い回しに、ネクタスは眉間を寄せた。
「どういう意味だ?」
「元老院達と協議の結果、貴様には『退官処分』が命じられた。今週末には、このアカデミーから立ち去ってもらう」

 ネクタスはすぐに反応出来なかった。しばらく立ちすくんだ後、わなわなと震えながら確認する。
「──私が……退官処分、だと?」
「当たり前だろう。今まで退官が命じられなかっただけでも不思議なぐらいだ。貴様は重罪人ヴァルセルと結託していただけでなく、シリアと組んで皇帝の後継者ともなるべきクリティカンを造る研究を妨害したのだ。退官処分で済んだことを、むしろ奇蹟と喜ぶべきだな。本来なら一生牢獄か、良くてもエデン追放になる程の罪だ。退官処分程度で済んだのは、私の『良心』とでも思ってもらいたいものだ」

 青ざめたネクタスの頬に、冷たい汗が流れた。握りしめた拳が小刻みに震える。この処分は、決して元老院自らが提案して下したものではない。元老院に入れ知恵したグローレンの策略であることを、ネクタスは見抜いていた。ここまで手を廻すということは、他にも何か企んでいるに違いない。
「そうそう! もうひとつ、アカデミーを去った後、貴様には『インフェルン』に向かってもらうことになっている。オタワにあるアーシアンの研究所で、現在の地球環境に馴染める生物をデザインしてもらいたい。新しい生命を造るのは、貴様の得意分野だろう。ひとまず2年契約ということになっているので、その間思う存分、研究に打ち込むがいい」

 インフェルン。エデンとは対極にある大陸。
 多くは砂漠に覆われ、一部の海は塩分の高い死海となり、生命がより育成しづらい環境だと言われている。大きな河口の周辺は鬱蒼としたジャングルになっているが、そこに住む人々は伝染病に悩まされている。陸地では未だに噴火活動を続ける地域もあり、アーシアンからは「地獄」と呼ばれている不毛の大陸だ。
 アカデミーで教鞭をとっていた者がインフェルンに飛ばされるということは、前例にないことでもあった。明らかな作為が感じられる。
「……サルジェをどうする気だ」
 低く呻く。
「安心しろ。サルジェの頭脳は、このエデンにおいて貴重な産物だ。だから、『研究対象』としてしばらくは生かしておく。不要になったら、その時点で『お払い箱』だがな」
「殺す、ということか」
「分かり切ったことを聞くな」

 瞬時にネクタスが掴みかかった。壁にグローレンの背を押しつけると、襟首を締め上げる。
「──貴様は友人であったヴァルセルを裏切っただけでなく、罪もないサルジェまでをも殺すつもりか! 彼はもう実験体なんかではなく、『ひとりの人間』だ!」
 湧き上がる怒りから、ネクタスは襟首を掴む手にさらなる力を込めた。
「サルジェはお前のような冷酷さなど欠片もない、生命を慈しむ優しい人間だ! アカデミーにいる無機質なアーシアンやクリティカンと違い、魂と心を持った素晴らしい人間なんだ! 貴様のような人間のクズに、サルジェをいいようにさせはしない!」
 ネクタスの剣幕に、グローレンも一瞬恐怖に顔を引き攣らせた。
「──この手を放せ。さもないと、サルジェと一緒に『貴様の娘』も処刑するぞ!」

 ティナを引き合いに出され、ネクタスの手から力が抜けた。グローレンは体制を立て直し、ネクタスを睨み据える。
「ヴァルセルが友人だと? ──笑わせるな。私はあの気障(きざ)な男が、昔から大嫌いだった。あいつに近づいたのは、奴の背後にある権威に惹かれたからだ。ましてや、サルジェのことを人間だなんて考えたこともない。あいつはエデンの所有物──それだけだ」
 そう言うと、ネクタスに背を向ける。
「本来であれば貴様如き、ヴァルセル同様公開処刑に出来るのだ。だが、アカデミーから逃亡したアーシアンのレジスタンスを、今は刺激したくないからな。だから、貴様を生き延びさせてやるだけの話だ。私に今回の復讐をしようとしても、私はアンゲロイによって完全に守られている。アンゲロイを敵に回したくなければ、おとなしく私の言い分に従うことだ」
 それだけ言うと、グローレンは部屋を後にした。