第三章 初めての友達
 ネクタスから離れ、サルジェはひとり教室の奥へと進んだ。
 明るい白色の通路と打って変わって教室内は薄暗く、重厚な雰囲気を感じさせた。教卓は扉より低い位置にあり、席はそこを取り囲むように広がっていた。
 教室には、すでに大勢の学生達がいた。中に入ってきたサルジェを怪訝そうに見る者もいる。「何であんな小さな子供が……」そう囁く声がサルジェの耳をかすめた。

 確かにサルジェは、10歳とさえ思えない程に小柄だった。年下であるというハンデがあるのに、見た目もさらに幼いとなるとよりいっそう居辛くなる。サルジェは教室の中でも一番目立ちにくい列の、さらに一番端の席に座り、出来るだけ小さく身をかがめた。誰も自分のことに気づかず、誰も自分を見ることがないように──そう願っていた。しかし──。
「君、ずいぶんと体が小さいけど、年はいくつなの?」
 背後で声がした。誰にも気づかれたくないというサルジェの願いは、脆くも瞬時に崩れ落ちた。
 サルジェが振り返ると、視線の先には目つきの鋭い少年が立っていた。彼の表情からは、プライドの高さや負けん気が滲(にじ)み出ているように思えた。
「10歳です」
「10歳? そうは思えないぐらい、背が低いんだね。どうして? 発育不全?」
「それは──私にも、よく分かりません……」
 自分のことさえよく分からないのに、背が低い理由などさらに分からない。サルジェはそう思った。
「でも、10歳っていうことは3年も飛び級したのか。それはすごいな!」
 少年は感心するように笑った。
 その笑顔に、サルジェは何だかホッとした。ここに来て初めて、笑顔を見た気がする。
「……あの、あなたは?」 
「僕はドルケン。13歳だよ。宜しくね」
 そう言って、ドルケンは手を差し伸べた。握手を求められることにまだ慣れず、サルジェはしばし呆然としていた。しかし、この行為はティナからも促されたことを思い出し、恐る恐る手を伸ばしてみた。すると即座にドルケンはサルジェの手を掴み、ぎゅっと握り返した。
「君、さっきグローレン博士やネクタス教官と一緒にいたでしょ? 知り合い?」
「は、はい。ネクタス先生は、私の世話をしてくれている人で──グローレンっていう人は、初めてここで会いました」
 しどろもどろで説明するが、再びドルケンは感嘆の声をあげる。
「本当かい? あのネクタス教官と知り合いなんていいなぁ、僕にも紹介してよ」
「でも、私──どういう知り合いなのか、分からないんです」
 サルジェは俯いて呟いた。ドルケンは首を傾げて「どういう意味?」と尋ねる。
「私、実は『記憶がない』んです」
 すると、意外にもドルケンは「ああ、やっぱり!」とすぐに納得してくれた。
「僕もそうなんだよ! 記憶がないということは、君も『クリティカン』なんだね!」
 すぐにドルケンが納得すると思わなかったサルジェは、しばらくポカンとしてしまった。そんなサルジェを気にも止めず、ドルケンは話し続ける。
「僕も君と同じ『クリティカン』だから、10歳までの記憶は抹消されているんだ。クリティカンのことを人造人間っていう風に悪く捉える人達もいるけど、みんながみんなそうじゃない。そりゃ確かに、衛兵や労働力を補う為のクリティカンもいるけどさ。僕らに関してはそうじゃなく、『エデンを率いるリーダーになるようDNAからデザインされた、選ばれし子供達』なんだ!」
 そう言うと、ドルケンはまるで宝物でも見るかのようにしげしげとサルジェを見つめた。
 先程、車の中でも同じ説明をネクタスから受けた。ネクタスが度々「君のような学生がアカデミーには大勢いる」と言っていた理由が、サルジェはようやく理解出来た。
 だが、だからといってサルジェは「クリティカンである」ということをドルケンのように受け入れられたわけではなかった。
 ドルケンはクリティカンであることに対し、誇りを持っているようだ。しかしサルジェは、そんな話を聞いても何ひとつ誇れるものなどない──そう思った。
 記憶がないということは、自分が何者であるかも分からず、何のために生まれてきたのかも知らず、何が好きで、どんなことに喜び、笑い、悲しんだかさえも分からない。それが途方もなく不安だということを、ドルケンは考えないのだろうか。
「あの……」
 サルジェは勇気を出して、尋ねてみた。
「あなた……いえ、ドルケンさんは、記憶がないことについて不安に思わないのですか?」
 すると、ドルケンは今までの賞賛が消え失せたかのように怪訝な表情を浮かべた。
「『記憶がない』なんて、別にどうっていうこともないだろ。僕らクリティカンは10歳になるまでの装置にいる間、あらゆる知識を脳にインプットされているんだ。それは通常、10歳からアカデミーに入る3年間の間に、勉強を通じてすべて思い出せるからね」
「いえ、そういうことじゃなくて──自分が何者なのかとか、自分はどんなことを考え、どんなことを好きだったのかとか、そういう記憶です」
 サルジェの問いにドルケンはぷっと吹き出すと、腹を抱えて笑い出した。
「なぁんだ、君! 10歳でアカデミーに入ったって言う割には、あまり賢くないんだね! 自分が何者かなんて、決まってるじゃないか。『僕は僕』でしかない。それ以上のことなんか、思い出したって何の得にもならない。ましてや、好きなことを思い出して一体何になるのさ。アカデミーでの成績が上がるわけでもなければ、指導教官からの評価が高くなるわけでもない。そんなことを考える奴はいずれレジスタンスとしてエデンに反旗を翻すから、即刻『抹消処分』だよ」
「ま……抹消?」
「血縁から誕生したアーシアン、つまりは遺伝子操作のみで生まれた人々のことだけど、彼らは絶対に抹消されることはない。むしろ、暴行や殺人から完全に保護されているんだ。だけど、クリティカンは別さ。クリティカンは最初から優秀なDNAをデザインしている分、完全なる人工物でもあるから、その所有権はエデンにあるんだ。すなわち、僕らは『エデンの所有物』なんだよ。だから、エデンに逆らうような意識を持ったらすぐに抹消されてしまう。要するに『殺されてしまう』んだ」
「そんな!」
「──ま! そうなりたくなかったら、エデンに逆らわなければいいだけの話さ」
 そう言うと、ドルケンはサルジェの隣に腰掛けた。
「だけど……何か君って面白いなぁ。名前、何て言ったっけ?」
 自分が名乗っていないことに気がつき、サルジェはハッとした。
「サ、サルジェです」
「サルジェか。──ふぅん。君のDNAのオリジナルはかなりの美男子、或いは美女だったんだろうね」
「どうしてですか?」
「だって君、すごく可愛いから」
「そうなんですか? 自分のことを、鏡でよく見たことがなくて…」
 誉められるということが、サルジェにはまだ理解出来ていなかった。サルジェは、ドルケンが自分が悩むこととはまったく別のことに興味を持ち、好奇心を持っているように思えてならなかった。
 何故なら、サルジェにとっては誇りや評価、容姿のことなどよりも、自己存在や意義、生きる目的の方が大切だったから。
 だが、まったくそれらを「完全に思い出せない」状態なのであれば、そもそもそんなことに悩むことさえなかっただろう。潜在意識の奥深くで、自己存在や意義や目的を理解しているからこそ、顕在意識が思い出せないことに苛立っているのだ。
 何て中途半端な状態なのかと、サルジェは思った。
 ──ドルケンのようになれたら、どんなに楽だろう。
 そんなふうにも考えた。

* * *

 ドルケンはサルジェのことが余程気に入ったのか、教室を移動する際いつも一緒にいた。隣に座っては、サルジェのテキストや、パネルに打ち込まれる勉強内容を逐一覗いていた。さすがに気恥ずかしくなったサルジェは、ドルケンに覗かないようお願いした。
「ごめんごめん! 10歳でアカデミーに入るような子の考え方や思考パターンを知りたくてつい、さ」
「でも…見られていると、何だか緊張します」
 サルジェは頬を赤らめてそう答えた。人に見られることが何故緊張するのか、その理由はサルジェにもよく分からなかったが、ドルケンは素直に応じてくれた。
「本当にごめん! 君が嫌ならやめるよ」
 だが、そう言いながらもドルケンはサルジェを見ることをやめようとはしなかった。その視線は好奇心や憧れだけでなく、時折、嫉妬や羨望も混ざっていた。
 否、それだけでなく──ドルケンは時折、サルジェの頭の先から足の先まで、まるで舐めるように見つめることもあった。
 確かにドルケンが言うように、サルジェは容姿端麗なアーシアンの中でも目立つ程の愛らしい顔をしていた。大きな翡翠色の瞳は長い睫に囲まれ、白く透き通るような肌をしている。思春期を迎えていない彼の声は少女のようにか細く、制服が男性に定められた色である白でなければ、サルジェが少年であることに誰も気づかなかっただろう。すでに思春期を迎えていたドルケンにしてみれば、少女のような可憐さを持つサルジェに対する興味があっても不思議ではない。
 だが、サルジェはまるで生まれたての子猫のように何も分かっていなかった。勿論、ドルケンが内心で自分をどう見ているのか、ドルケンさえこの時点では気づいていない秘めたる思いに、幼いサルジェは気づきようもなかった。

* * *

 初めてのアカデミー生活に、サルジェは疲労困憊して帰ってきた。サルジェの様子に、ティナは驚いて駆け寄ってくる。
「お兄ちゃん、どうしたの? すごくヨレヨレじゃない」
 ヨレヨレという表現がおかしくて、ついサルジェは吹きだして笑った。
「うん、何だか……ひどく疲れてしまって」
「えーっ。学校に行ってそんなに疲れるなんて、おかしいよ。ティナの学校、そんな疲れないわ」
 ティナは無邪気な分、言葉がストレートだ。それをフォローするかのように、ネクタスが言った。
「サルジェは今日初めて行ったのだから、疲れるのは仕方ないよ。それに、ティナの学校と違ってサルジェは自分より年上ばかりのアカデミーにいるんだ。疲れてしまうのは、ごくごく当然なことだ」
 そう言うと、ネクタスは労うようにサルジェの肩に手をおいた。
「どうだ? アカデミーの雰囲気に、慣れそうかい?」
「いえ、そこまではまだ……。ただ、ひとり友達が出来ました」
「ほう! それは良かった。何ていう学生だ?」
「『ドルケン』って、言っていました」

 その名を口にした途端、ネクタスの表情が曇った。サルジェでさえ、さすがにまずいことを言ったのではないかと気になった程だ。
「ドルケンとは……彼とは、あまり一緒にいない方がいい」
 どんな時でも優しく穏和なネクタスから聞かれた意外な言葉に、サルジェは愕然とした。
「どうしてですか? 私の友達になってくれる人なんて、ドルケンぐらいしかいないのに──」
「例えどのような理由があるにせよ、彼は駄目だ!」
 ネクタスの口調はいつになく厳しかった。
 まるで悪いことでもしてしまったかのように、サルジェは言葉を失った。サルジェのそんな様子に気づき、ネクタスは説き伏せるように語りかける。
「ドルケンは、装置から誕生してすぐの時から権威に強い憧れを持っている。その上、非常に負けず嫌いだ。今は君と仲良くしていても、いつ手のひらを返してくるか分からないような危険な子なんだよ。だから──いいね、彼と仲良くしてはいけない。分かったね?」

 ネクタスの説明が、サルジェはしっくりこなかった。
 確かにドルケンは権威に惹かれる傾向はあるが、悪いと断言出来る程ではない。それに、ネクタスにそう注意されても、今日1日の中で自分とお喋りをしてくれたのはドルケンただ一人だった。だから、自分が友情として育めるうちはドルケンと一緒にいよう──そう思うサルジェだった。